シッタカブリオーネ

虚言・妄言・支離滅裂

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理不尽自覚

 この夏に遊ぶ計画を立てるため、旧友に連絡を取った。彼女の頭はあまり論理的にできていない。それが彼女の特徴であり、そこから飛び出す理解不能な発言や行動こそが今でも会おうなどと思わせるファクタだろう。
 しかし、もし彼女と知り合ったのが最近であったら、僕は確実に彼女を遠ざけていたように思われる。スムーズな意思疎通などほとんど不可能だし、少し利己的すぎる。
 それなのに、彼女に対してはそれを特徴として許容している。そればかりか、そういった特徴が変わって欲しくないとさえ思っている節がある。なぜだろう、それは。

 最近は、自己というものを、他者も含めて考えるべきだとして検討している。人間は環境を使って自己のバランスをとる。バランスをとるということは、すなわちそれと全く逆の方向の力が内的に働いているということだ。意識が脳の活動の一切を把握できていない以上、他者と自己の境界は曖昧だろう。
 そして問題はそこへ向かう。僕は彼女によって何を得ているのか。何が、彼女を許容させているのか。

 僕は結局僕が知りたい。そして少なくとも、彼女より僕の方が利己的すぎることは確かだ。
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  1. 2008/07/25(金) 00:50:45|
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しゅーきょー

  宗教に対する度を超えた拒絶感は、少し正常の範疇を超えているように感じる。世の中で散見される、そのアンチな感情を共有する集団もまた、宗教的に見える。しかも粗悪な宗教のように。
 宗教的であるが故に批判する、というのは自らの置いている状況に気付いていないだけだろう。関係というのは大体において宗教的だと僕は考える。恋人同士なんてまさにそういうものだと思うし、何より自己という奴が最も怪しい。自己とは偶像ではないか?幻想ではないか?神の原型が他者であると言われるけれど、それ以前に自己が最も胡散臭い。宗教的とは考えられないか?
 私は私の殉教者であり、同時に私の神である。時間的広がりを念頭に置けば、その命題は全く不自然ではない。そう思うんだけど、それでもなお宗教であるというだけで叩く輩はいるのだろうか。だとしたら、何を根拠に叩くのか。何を信じて。
 見え透いた動機ではなくて、それを安定させているものが知りたい。
  1. 2008/07/24(木) 16:48:38|
  2. 日常
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未定

--memo--

・バイトってほとんど社会主義だ、と感じる。人間の中で最も恐ろしいと感じる感情は善意だ。
  1. 2008/06/22(日) 01:22:58|
  2. 日常
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システム

 ネタを小出しにすることと、暖めて無意識に成熟させること、どちらにも利点はある。小出しにすれば、要するに変遷がわかりやすい。今日の自己と昨日の自己は少し違う。朝の自己と夜の自己も少し違う。違いの中から見いだすべきは、向かう方向。どこへ向かうのか、どれくらい歩いたのかがわかれば、迷いはきっと起こりづらくなる。
 しかし欠点もある。ヒトは勘違いをするものだし、手近にあるものを真実だと思い込むこともよくある。そして小出しにするためには言葉が必要で、言葉はそれ自体方向を持っている。良くも悪くも形となって現れてしまう。形は一つのあり方を肯定するもので、その他の形の否定形とも言える。なにより、目印は、振り向かせるのだ。そして叫ぶ。これこそが私のあり方だ、私はこうあるべきだ、と。
 もし僕が永遠に生きられるなら、目印なんていらない。歩くことだけを楽しもう。風のように、水のように。けれど僕は常に死への可能性をもつものだ。だから、すべては選べない。何かを選ぶしかない。欲しいのは、帰る家でなければ、臥すための墓標でもない。今の自分に必要なのは、きっと、蟻のような確実な一歩一歩だ。


 話は変わる。この社会において、嫌われ者というのは多分必要なのだ。いや、そうじゃない。この社会において嫌われ者を必要とする仕組みが存在しているというだけだ、きっと。嫌われ者というのは、それ以外の者に結束や共有される楽しみを与える。嫌われ者がいる方が和やかになれる集団が、この世には多く存在する。本当はなくても済むのだけれど、それを見つけ出しクスクスと笑い合う愉しみをほとんど誰も手放そうとしない。最初はカウンターだったのだろう、けれど簡単に手に入るそれはいつまでも機能として消えない。
 バランスをとるために何かを楽しむのは、もうやめよう。そんなことをしなくても愉快なものはある。感情は調整機能だ。けれど、調整が必要なのは他者との関係においてだけではない。あるいは、自分だって十分に他者じゃないか。
 しかし、難しいことだ、他者との関わり合いというのは。そこにはもはや、誰という単位で計れないものが成立しているから。だからできれば、最初から関わりたくない。あーあ、面倒くさい、もぅ。


 道を歩くのは容易い。けれど、昨日歩いた道をもう一度歩くのは難しい。ほとんど不可能だ。そうして、そんな馬鹿げたことを考える僕を、地球が笑う。昨日僕がいた場所は既に、物理的に遥か遠くだ。もう二度とそこへ行けない、なんてことはないけれど。
  1. 2008/06/21(土) 23:53:43|
  2. 日常
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こころみ

 どうも書いたり書かなかったりするので、よろしくない。書くなら毎日書く、書かないならずっと書かない、ときっぱりすべきのように思えた梅雨時日本劣等感。要ダジャレ自重。
 まあ、そんなわけで、空いている時間にメモ書き投稿をして、夜に一応の清書をしようキャンペーン勃発。どうせ一週間も続かないだろうけれど。

 本日の降水確率は20%。実際は水滴が極微量降った。以前、20%で降られることが体感的に20%を超えている、と書いた。冷静になって考えれば、ここにある理屈は簡単だ。僕は思い切り空が晴れていれば天気予報なんて見ない。雨が降るかもしれないという予感をわずかでも感じて、それで天気予報を見るのだ。だから、体感的に20%を超すのは当たり前のことと言える。
 占いなんて馬鹿馬鹿しい、と思っていたけれど、案外それに近いことをやってしまっていることを自覚する。情報は客観的に見なきゃだよなぁ、と当たり前のことを思う。

 出先に着いてからライターを持参し忘れたことに気づく、何度目だ自分。いっそ左手の薬指あたりに埋め込むと良いかもしれない。さすがに置き忘れることはなくなるだろうから。

 現在読書中の本に、“人間は脳を10%以下しか活用していない”というのはデタラメである、というようなことが書かれていた。それはもちろんそうだろう、神経科学とかから見れば。でも、その言明が意味していること、意図を想像すると、何というか的外れなように思える。
 その言明の意味、あるいは価値は、人間の可能性を具体的に小さく設定してみせることだろう。大事なことは、イメージを持つことだ。現在の状態をただ単に“まだまだ”とするのではなく“10%”とすることでそのイメージに具体性を持たせることにこそ、その言明の意図があるのだと思う。
 イメージは、未経験なものごとに取り組む場合非常に重要だと思われる。その他、未来を設計するのにも役立つ。ヒトはあらかじめ用意された着地点に向かって飛ぶものだ。イメージとは、私に先立って投げかけられた未開の着地点を照らす照明のようなものだ。そんな気が、少しする。
 個人的には、イメージを使ってものごとを云々するの、結構苦手だけれど。
  1. 2008/06/20(金) 23:54:42|
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理解と現実

 大概の人間は、自分についての理解を他人に望む。それはそうなのだけど、その欲求も二つに区別できるように思う。一つは自分で作った自己という虚構を受け取って欲しいと望むもの、もう一つは他人に自己という虚構を作成してもらおうと望むもの。
 前者は世界に対するアクション、後者は自己に対するアクションと言うこともできるだろう。当然ながら、望まれているものは変化である。大げさな言い方をやめれば、現状において感じる対人関係の不満を解消するために、自己か他人を変化させようという試みが、いわゆる他人の理解を望むということではないかと思う。

 さて、標準的な人間は何らかの試みを行うとき、結果を予測し最も理想的であるような選択をするものである。それを試行する際に理想から外れていくとしても、少なくとも最初の段階ではそうしようと思っている。
 そして結果を予測するとき、明確なサンプルがあるとどうしても影響を受けてしまうものである。

 あー、だめ、眠い。結果だけ残して、また明日、もしかしたら書くです。
 結果:ネガティブなものばかり追いかけるべきではない。
 ねまーす。
  1. 2008/06/10(火) 03:27:47|
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どうにも

 うまい言葉が見つからない。空回りのあげく熱暴走のためにフリーズ。そんな近頃。のような気がする。いや、多分全然違う。そう、まるで滑稽なほど。
 けれどそれでも言葉を語れば、違っていると感じさせる当の何ものかを間接的に感じることができる。違っていると感じることでしか触れられない何かに、触れることができる。それこそが言葉の価値。
 その何ものかが、そう感じる以前に存在するものなのか、すなわち幻想にすぎないのではないか、などということはどうでも良いことだ。もどかしさがそれによって、動力や指針となり得るならそれで良い。前進することによってのみ価値は生じるし、価値があるとは前進できるという意味だ。
 前進?あるいは変化。運動?あるいは鑑賞?

 わからない。ただ、言葉の恐ろしさとは、言葉の中にわかるという語が含まれていることだ。わからないことでさえ、わかったことになってしまう。誤解も一つの理解だ。理解は何かの終着であり諦めのようなもの。
 しかし、それがなければ、新しさというものも無いのかもしれない。
 よくわからない。わからないくせに格好ばかりつける自分の言葉は、もうほんとにいい加減にしろと思う。僕はわかりたいのか、わかりたくないのか、わからない。前進しているのかどうかも怪しい。なんともはぁ、もどかしい。


 今日は雨が降るとの予報だったので傘を持ってバイトへ向かう予定だったが、朝、そんなことは忘れていた。結局雨は降らなかったけれど、なんだかばつが悪い。まあ、まあ、いっしょに反省をしようじゃないか気象庁。
 帰宅後、アニメ〈青の6号〉を鑑賞した。すごい濃密で、面白かった。落としどころ(母親のようなムスカや、ゾーンダイクの家族など)がいらないという気はするものの、逆に言えばそれくらいのことをしてと懇願できるような作品。いやあ、よかったッス。

 って、昨日もバイト後にアニメ〈灰羽連盟〉を観てしまったくせに、良いのか、時間は。と自家突っ込み。良いのです。と自家洗脳。これぞ自家宗教。アホか、自分。以下エンドレス。
 さあて、寝ますか。寝られればな。
  1. 2008/06/08(日) 23:08:10|
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