シッタカブリオーネ

虚言・妄言・支離滅裂

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《17.羽化》

声のきれいな人だった。
名前は麻由子。
僕がこの世界で最も愛した存在だ。
部屋の隅を自分の居場所と決め込んでいたのか、いつもそこにしゃがんでいて、左手で頭を支えながら、何かを悔いているような眼差しを床の上に漂わせていた。
僕に見られていることに気付くと、いつも健気に微笑んだ。
それはおそらく優しい拒絶で、しばしば僕は悲しい気持ちにさせられた。
「ごめんね、もうすぐ、出て行くから」
彼女は綺麗すぎる声で言う。
だから僕の感情なんて、すぐさまぐちゃぐちゃになって、叫んでしまう。
「そんなこと、言わないでよ」
彼女は申し訳なさそうに、けれどなお微笑んだまま、ゆっくりと首を振る。
「ごめんね」

彼女は一日に一食しか食事をとらなかった。
それも、僕が無理にお願いして、やっと。
一度だって自分の分を残らせることはなかったし、いつも美味しそうに食べていたけれど、ほんの一瞬だけ瞳に深い懺悔の色が浮かぶことがあって、僕は徐々に食べる量を減らしていくほか無かった。
「何か、好きな食べ物はないの?」
僕が聞くと、彼女はしばらく考えて答えた。
「水」
「それは、どちらかと言えば食べ物じゃないかな」
僕が笑うと彼女は本気で困っているような顔をした。
「じゃあ氷、はダメ?」
「ダメって事はないけどさあ……」
僕が唸っていると、彼女はまた謝りそうに見えた。
「それなら今度、かき氷機を買ってこようか」
それを聞いて彼女が微笑むのを見て、僕はほっとした。
「今の季節に、売っているかな」
「案外、今だからこそリサイクルショップとかにあるかもしれないよ」

細い指、細い腕、細い首。
彼女の身体はどこを触れても簡単に壊れてしまうように感じられた。
彼女自身、つまりその心も。
けれどその逆に、どんなに力を加えられても決して曲がりさえしないように思えることもあった。
僕は不思議だった。
なぜ壊れそうな彼女に触れると安らぎを覚え、逆に鋼鉄のような彼女に触れるとひどく不安になるのだろう。
わからないけれど、しかしそれはとても無様で醜いことのような気がして、僕は彼女にそんな自分の本心を告げることなどできなかった。
おそらく容易に見抜かれていただろう。
そう思うのは、そうであって欲しいという願望のためか、あるいは彼女の見せた、慈愛に満ちた眼差しのためか、いずれかだろう。
いずれにしたって、もはや何の意味はない。
それでも僕は、未だにいずれだとも断定できかね、ときどき考えてみるのだった。

ある朝、いつもの場所で、彼女は動かずにいた。
声をかけても、触れてみても、何の反応も返してくれなかった。
うずくまる彼女に僕は心配したけれど、そういったことはそれまでにもあったし、講義を休むわけにもいかなかったので、そのまま家を出た。
本当は、どこかで予感していたのかもしれない。
僕は逃げたかったのかもしれない。
最後の時が、そうすることで遅らせられるなんて、そんな夢みたいなことを願っていたのかもしれない。
しかしそんなことでどうにかなるわけはない。
それはもう、すべての生物が大地に手を当てて祈っても、地球が回るのを止められないのと同じ。
夕方、部屋に戻ると、彼女はうつ伏せに倒れていた。
「麻由子!」
駆け寄って揺さぶると、彼女は顔を上げ、僕を見た。
そして微笑む。
「おかえりなさい」
その微笑みは嬉しそうで、目を逸らしたかった。
「どうして」
「泣かないで。これは、ちっとも、悲しいことじゃないんだよ」
彼女の震える左手が、僕の頬に触れた。
僕はその冷たい手を右手で覆った。
「こんなに幸せなことって、ないんだよ。だから、泣かないで」
彼女の頭がだんだんと落ちていき、僕は左腕で支えた。
「麻由子、麻由子!」
彼女の唇がかすかに動いた。
見たくなかった。
塞いでしまいたかった。
でも僕の眼は、じっとそれを見ていた。
なにを言いたいのかなんてわからない。
もう声は聞こえない。
彼女の手がどんなに冷やしてくれても、頬が熱くてたまらなかった。
やがて、パリパリという音が聞こえ。
彼女の背中が裂けた。
突風が吹いた。
その暖かさに、僕の感情は吹き飛んだ。
握っていた彼女の左手がフワリと潰れた。
僕は立ち上がり、窓を開けた。
それが彼女との約束だったからだ。
そうして彼女は、たぶん、この部屋から出ていった。
あとには彼女の抜け殻と、僕だけが残った。

その抜け殻を捨てるのに三週間もかかったのは、感傷に浸っていたからではない。
単に僕がズボラなことと、それが燃えるゴミの日に出して良いものか迷ったことが原因だ。
正直に言えば、何度かその抜け殻を覗いて、何かが残されていないか調べてみたりもした。
けれど当然、中は空っぽだった。
僕が愛した存在は、何だったのか。
わからない、けれど。
きっと大気中のどこかを、今でも漂っている。
風が綺麗な音で鳴るたび、僕は彼女を思い出す。
名前は麻由子。
僕が世界を愛せる原因。
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  1. 2007/11/10(土) 02:10:59|
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《16.トマトのケチャップ》

日曜日は親なんていない方が良い。
ずっとゲームをしていられるし、何をしても怒られないから。
今日は朝早くに両親が出かけていった。
結婚式がどこかであるらしい。
こんな日は最高だ。
寝坊だってしたい放題で、夜、親が帰ってくればいつもより豪華な夕食が期待できる。
でも、どうしよう。
微睡みは心地よくて、夢はとても楽しいけれど、時間は限られている。
こうしている間にも出来ることは少なくなっていく。
時間を自由に操れたらいいのに、どうしてそうできないんだろう。
人間の考えられる事なんて、すべて実現可能なものにすぎない、と父さんはときどき言うけれど、少なくとも今の僕には時間は操れない。
ああ、こんなこと考えてたって、仕方ないのに!
僕は意を決して、ベッドから起きあがった。
時計はもう十時を回っている。
計画を立てている暇なんて無いし、前々からこの日のことを教えてくれてなかったことを恨んだってしょうがない。
出来ることを最大限楽しもう。
特攻の精神、未来に向かってバンザイ・アタックだ。
いざ、まばゆき天空へ。

とは言え、お腹が空いた。
人間だって動物だから、栄養を補給しないと充分に動けない。
明日もし、体がロボットに改造される夢が叶うとしても、とりあえず今日のところは人間の体で我慢しなくちゃいけない。
それくらいの我慢が出来るくらいには、僕も大人だ。
冷蔵庫を開けると、一番上にオムライス。
昨日、父さんに頼んで作っておいてもらったやつだ。
母さんに頼んでも良かったけれど、冷蔵庫の野菜室にニンジンの在庫が腐るほどあるのを見つけたから、父さんにした。
そうだ、今の内にニンジンを捨ててしまうのも良い手かもしれない。
なんて少し思ったけど、そんなことしてもどうせ悪徳スーパーから補充されるだけだし、どんな嘘を言ったって事実を見失わないくらいには、母さんだって賢い。
僕はオムライスをそのままレンジで温めて、その間に牛乳を飲んだ。
朝食が終わったらどうしよう。
そうだ、今なら、父さんの工具を使える。
でも、それは、危険だろうな。
父さん、自分の物の位置が少しずれただけでも、気付く人だから……。
レンジが終了の音を鳴らしたので、僕は食べ終えてから決めることにした。
戸棚からケチャップを取り出して、オムライスにかける。
すると、いい加減にかけたはずなのに、何か見たこともないような面白い模様が出来上がっていた。
僕はまだ子供だけれど、人前で食べ物を使って遊んだりするような真似はしない。
でも、今は、人前じゃない。
ケチャップで絵を描いても、別に恥ずかしくない。
僕は黄色いキャンバスにぐちゃぐちゃと絵を描いた。
ひどい出来。
でも、可笑しい。
しかしすぐに黄色は赤で埋め尽くされてしまった。
ついでに、テーブルの上も、少しだけ。
最初は手元が狂っただけだった、本当に。
でも、そんなの誰も見ていないんだし、意図的にやったのと変わらないって言い張られたら、その通りだと思う。
だけどその逆も、同じ事だ。
手元がもうどうしようもなく狂ってしまったんだから、テーブルの上一面にケチャップが散らばったって、僕のせいとは言い切れない。
いや、僕だってバカじゃないから、そんなことで言い逃れできるって本気で思ってたわけじゃない。
でもこういう理屈って、たぶん、スイッチを入れるくらいの効果はあるんだ、困ったことに。
それで、一本目のケチャップが切れた頃には、テーブルの三分の一くらいは絵で埋まった。
逆に三分の二はまだ手つかず。
こういうのは気持ちが悪くて、耐えられない。
平等って大事らしいし、何事も最後までやり通せって校長も言ってた。
だから僕は戸棚から二本目を取り出し、絵の続きを描いた。

完成した頃には、もうお昼を過ぎていた。
なかなか悪くない出来、題名はニワトリの玉子とその他諸々。
そろそろ本気でお腹が空いてきた。
そういえば、邪魔だったからイスの上に置いておいたオムライスがあったことを思い出す。
すっかり忘れていた。
見ると、気味が悪いくらいケチャップがかけられたオムライス。
こんなの、食べられるはずない。
実際ケチャップに沈んでいるって言っても良いくらいだもの。
上の部分をスプーンで取れば、大丈夫かな。
とにかく流しまで運ぼうと皿を持った、そのときだった。
手が滑った。
皿は落ちて、床が、そう、ケチャップまみれ。
これはまずい。
慌ててオムライスだった物を拾い集めて、ティッシュで拭いたりしたけれど、あいにく床はカーペットだ。
赤いシミが全然落ちない。
やばい、こんなの絶対に怒られる。
ああ、何でこんな目に遭わなくちゃいけない?
汚れた部分を切り取って捨ててしまえば、汚したことは隠せる。
あるいは、お湯をぶちまける?
駄目だ、意味がない。
だいたい食べ物を落としてしまったなんて恥ずかしいこと、絶対に隠さなきゃ。
ポジティブに考えよう。
どうせ僕はこのシミによって怒られるんだ。
それはもう回避不能。
だったら、シミがさらに増えるような遊びを、今だけ許されていると考えられないか?
ケチャップ。
赤いシミ。
赤……。
偽物の血。
死体ごっこ。
うん、一度やってみたかったし、この機会を逃す手はないよな。
僕は残りのケチャップを全部床にぶちまけた。
母さんたちが帰ってくるまでには、あと少なくとも四時間はかかるだろう。
それまでは、ゲームでもしていよう。
僕は犯行現場を後にした。

それから四時間経って、僕はもうあまり着ないだろうと思う服に着替え、ケチャップの海にダイブした。
冷たくて気持ち悪い。
早く帰ってきてほしいと思う。
床と接触する右耳からは喧しい呼吸。
左の耳が、呑気な町内放送の音を拾う。
目を開けて、左手が見える。
まだ動くだろうか。
どうやって僕は動かしていたんだっけ。
人差し指を少しだけ曲げてみて、ちょっと安心。
人はいつか死ぬのだという。
呼吸も鼓動もいつの間にか気にならなくなって、こんな静かなら、別にそれでも良いかと思う。
だんだんと、眠くなってくる。
早く帰ってこないかな。
遠くで救急車のサイレン。
電話が鳴り出した。
でも、ごめん。
今、ちょっと、死んでいるから出られないね、僕。
鳴り止まない電話。
僕は目を瞑った。
父さんも母さんも、まだ、帰ってこない。
  1. 2007/11/07(水) 21:31:20|
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《15.矢印》

僕にとっての当たり前でみんなと接していると、ときどき哀れむような目で見られるので、自分はみんなと比べたら不幸な生き方をしてきたと思われているのかもしれない。
実際にそうなのかもしれないけれど、だからなのか、神様は僕に他人には見えないお導きをくださる。
たまに不思議な矢印が目の前に現れて、それに従うと、ちょっとした幸福が僕の元へ訪れた。
例えば道端で五百円を拾ったり、好きな子と出会したり、まあそんな程度の幸運だけれど、それでも三日に一度くらいの頻度で矢印は現れるので、僕は自分が不幸だなんて考えなかった。
「ただいま」
母さんは壁により掛かったままテレビを見ていた。
ただいま、と僕が言ったので無反応。
もし言わなければ、たぶん怒鳴る。
僕は買ってきた食料をすぐそばの冷蔵庫に仕舞った。
今から夕飯の準備に取りかかれば、だいたい八時には出来上がるから、どやされることはないだろう。
母さんの機嫌が悪くなければ。
僕は母さんに愛されていないわけじゃない。
愛されているのだと思う。
けれど愛情なんて、本当は大した機能を持っていない。
それだけのことだ。
母性本能だ何だと世間では大事に崇められているものは、結局母鳥が泣き叫ぶヒナの口に食い物を放り込むだけの動物的反応であって、それ以上ではない。
僕はもう自分の食い物を自分で得ることが出来る。
だから愛情が僕に利益を生む形で表出する機会がなくなっても、おかしくはない。
愛されていることは自明だけれど、もし証拠が必要なら、怒鳴ること、殴ること、蹴ること。
僕によって感情を著しく変化させることが、その証し。
逆に僕が親を愛しているのかと言えば、答えはイエス。
どんな仕打ちにも耐えているのだから、自分でも不条理を感じないではないけど、おそらくそうなのだ。
つまりこの生活は、愛情によって支えられているってわけ。
神様が僕に手を差し伸べてくださるのも、ウチがこんな理想的な家庭だからかもしれない。
愛情以外には、未来への希望さえない家なわけだし。

その夜、僕らが二人きりで食事をしていると、突然玄関のドアが開かれた。
数週間ぶりに帰宅した父さんだった。
父さんがいるとき、僕はずっと顔を伏せる。
母さんも同じだ。
「おお、人並みに夕飯か。これ、お前が作ったのか」
「はい」
僕は答えた。
目の前には父さんの足、靴下の破れた跡から汚らしい親指。
「俺の分は、まあ、無いだろうな。俺はここに来るたびに、ひもじさと、亡者共からさえ除け者にされる寂しさを痛感するね。ねじ切れるようだ」
父さんは僕の頭を鷲掴みにした。
「さあ、教えてくれるかい。何故お前は見窄らしき汝の父を迫害してまで、生に執着する。己の欲望は常に満ち足りるということがないだろうに、血を吐きながら延命する生に、お前はどのような価値を見いだしている」
父さんの手は僕の髪を握り、勢いよく壁の方に腕を振るった。
何度も、何度も。
「さあ女よ、そろそろ罪深き己の正体を現したらどうだ。ほら、お前が犯した罪のために、こんなに血が流れている。お前とは何の繋がりもないのに、哀れだとは感じないか。それとももはや、痛覚さえも腐り果ててしまったのか」
「やめてください」
目が眩んで、光しか見えない。
父さんの手の感触を感じるけれど、母さんの泣く声が聞こえるけれど。
「俺はお前とは違い、この子を見るたびに心がひどく痛む。だからこの子に、どんなに痛いか教えてあげている。分けてあげている。コレが愛情でなくて、なんだというのだろう。しかしお前はやめろと言う。つまりそれは、愛するなということだ。哀れな女、お前はさらに罪を犯そうというのか」
「やめて、お願い」
「そう、忘れてはいない。お前は俺が愛する女だ。だから、お前を解放しに来たのだ。もう苦しむ必要などない。この子に真実を告げ、別れを告げるのだ。簡単だろう?お前は私たちの子ではない、私はお前を愛してなどいない。そう言ってあげれば良い」
「いや……。いやです」
母さんが答えると、僕の髪は離された。
僕は床に倒れた。
体が動かない。
感覚が遠い。
なぜだろう。
「お前はかわいそうな女だ。およそ神から見放されている。神はお前に理性をお与えにならなかったのか。それともお前は、それを感じられないほどに弱っているのか。病んだ女よ、それでも俺はお前を愛している」
「いや、来ないで」
「いよいよ愛情さえも拒むか。救えない女よ。しかしお前の心がどのように歪もうとも、お前が生きる限り、神の与えたもうたその肉体はお前に痛みを伝えてくれる。それこそが、救いへの標だ」
「来ないで!」
眩しいだけの視界に、青い矢印が見えた。
いつもより強く、僕を呼んでいる。
行かなければいけないと思う。
僕は這いながら、矢印の方に向かった。
「ほら、あの子が逃げていく。お前から真実を聞かされる前に。お前はきっと、永久に後悔する。まあそれも良いか。懺悔ならいくらでも聞いてやろう。嘆き叫ぶお前も、傷だらけで、血に赤く染まるお前も、涙が出るほど美しいよ」
父さんの声が遠ざかり、僕は家の外に出たのだとわかった。
けれど矢印は消えず、なお僕を連れていこうとする。
僕はそれに従ってさえいれば良かった。
それは神様のお導きだから。
必ずささやかな幸福が、その先にある。
僕はもう眼を閉じていたけれど、矢印は消えず、体はそれに従い、地面を這っていった。

視界が回復した頃、僕は感覚を取り戻し、痛む体を引きずって駅前の通りを歩いていた。
矢印はまだ消えなかった。
いつもよりずっと遠くへ導かれている。
いったいどこへ向かうのだろう。
やがて駅にたどり着くと、同時に矢印は消えてしまった。
それなのに、何もない。
誰か知り合いがいるわけでも、何かが辺りに落ちているわけでもない。
どういうことだろうか。
もし仮に僕を父さんから逃がすためのものだったのだとしても、こんなところまで来なくてはならない理由がない。
僕はしばらく待った。
怖かったからだ。
矢印が何の幸福をも導いてくれないという事態が。
けれど、どれだけ待っても、何も訪れなかった。
僕は家に戻ることにした。
母さんのことが心配だったし、もしかしたら今回の矢印は、神様のお導きではなく、ただの幻覚だったのではないかと思えてきたからだ。
冷たい風が髪を揺らすと、傷口が痛んだ。
父さんは落差の激しい人だから苦手だ。
優しいときと、そうでないときと、全くの別人。
壊れているのかもしれない。
いや、とっくに壊れているのだろう。
恐ろしいのは、あれと同じ狂気を、ときどき自分の中にも感じること。
血が繋がっていないのだとしても、情報は既に脳の中に刻まれているのだろう。
それだって、立派な遺伝じゃないか。
そうじゃないのか、父さん。

家の辺りが騒がしかった。
遠くからでもわかるほど、夜に似合わない明るい光が見えた。
サイレンの音。
煙、喧噪、人集り。
僕の家が燃えていた。
炎が眩しい。
どうして、こんなことに。
僕の眼が燃えている炎と、それを囲む人々と、赤い回転灯を映すのを眺めながら、意識は煙のようにだんだんと消えていった。

火の手は、僕の家から上がったと後で聞かされた。
その中に父さんと母さんの遺体があったそうだ。
二人とも、焼ける以前にもう死んでいたらしい。
僕が出て行った部屋の中で何が起こったのか、それ以上は何も知りたくなかった。
ただ焼け死ぬのはとても苦しいらしいから、そうでなかったのだと知れただけで、良かったのだと思うことにした。
僕はいろんな人の尽力のおかげで、とりあえず卒業するまで以前の通り高校に通えることになった。
今はぼろぼろのアパートに一人暮らしをしながら、ぼんやりと学校に通っている。
朝、母さんは、僕を起こしてくれるなんて事はなかったけれど、あの人に朝食を作ってあげるために、以前の僕は毎日早起きが出来ていた。
最近は寝坊してばかりで、駄目な自分を感じるたびに、僕にとって母さんが担っていた役割というものを思い知る。
しかし朝っぱらから憂鬱に浸っていても仕方がないので、僕は今日も駅に向かって自転車を走らせた。
街路樹がすっかり葉を落としている。
雪が降れば良いなと思う。
まだ早すぎるのは、わかっているけれど。
自転車を駅前に止めて、駅の改札まで走る。
しかしどうやら遅すぎた。
僕が乗るべき電車は、次の快速が通り過ぎて、さらに10分も待たなくてはいけない。
僕は電光掲示板を見ながら、せり上がってくる憂鬱が再び心を沈めていくのを感じた。
動きを止めるとすぐそうなる。
でもそれは自分自身で望んでいるからだろうと思った。
だからそっと、心を委ねる。
そっと沈んでいく。
そっと……。
けれどふいに、視界の隅に現れたそれを見て、僕ははっとした。
矢印だ。
また、どこかを示している。
僕にだけ見える、神様のお導き。
それの示す方向は、線路の上だった。
矢印はじっと動かず、僕を誘っている。
快速電車が近付いてくるのが見えた。
もう、耐えなくても良いということだろうか。
この体を捨てても良いと、そういうことだろうか。
鉄の塊。
恐ろしい速さ。
警笛。
振動。
そして風が。
死を許された僕を、吹き飛ばす。


僕は電車の過ぎ去ったホームに立っていた。
矢印はもう消えてしまった。
心臓の鼓動が早かった。
呼吸が苦しかった。
目を開けていられなかった。
跪くと、涙が溢れた。
僕はまだ生きていた。
なぜだろう。
僕はまだ生きていたかった。
理由なんて、たぶん、それだけだ。

その日以来、僕は矢印を見ていない。
神様から見放されたのかも知れないけれど、そんなことは大したことじゃないのだと、見えなくなって学んだ。
偶然五百円を拾わなくたって、バイトをすればお金は得られる。
偶然好きな子に会えなくたって、会いたければ会いに行ける。
矢印が見えなくなっても、僕はちっとも不幸ではない。
もしかしたら、生きていること自体が、ささやかな幸福なのかも知れない。
それがあるということさえ、理解していれば。
なんて思ったり、ね。
  1. 2007/11/03(土) 03:55:33|
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《14.テロり》

目を覚ましたらお腹が空いていた。あるいはお腹が空いたので目が覚めたのか。
ケータイで時刻を確認すると、12時13分。丁度良い頃合いだろう。
教室に戻る前に保険の先生と話さなくてはいけない。それがひどく億劫だ。
どうやら今僕以外に客はいないようなので、長くなるかもしれない。
去年までいた人に比べて真面目すぎるのだ。その代わり今の先生は若くて比較的綺麗だけれど、保険の先生にそんなものは求めていない。
より冷めていて、よりサボりやすい方が例えバァさんでもずっと良い。
僕はベッドから起きあがり、靴を履き、周囲を覆うカーテンを開けた。
すると、先生の姿はなかった。
トイレにでも行っているのだろうか。いずれにせよ、これはラッキィだ。
僕は先生の机の上に置かれた入退室の名簿にサインをし、急いで部屋を出た。
保健室前の廊下は昼間なのに薄暗い。
僕は玄関へ続く方に目をやった。
混み始める前に、自販機でジュースを買っておこうか、少し考える。
けれどさすがにそれは気が引けたので、振り向いて階段の方へ歩き出した。
校庭のあたりから教師のものらしき怒鳴り声が聞こえる。
内容は聞き取れないけれど、どうせくだらないことには変わりない。
彼らは生徒を馬鹿扱いするし、大抵の生徒は馬鹿相手に真面目な振る舞いはしない。
馬鹿の結晶を相互の努力で作りだそうとしているに違いない。
それはまあ結構なことだと思うから、どうか強制しないでほしい。なんて、願ったところで意味はないけれど。

うちの場合、基本的に学年ごとに教室のある階が違っている。けれど僕のクラスだけが、二年なのに三年の教室が並ぶ二階の隅にある。
そんなわけで、教室に戻るためには授業中の三年の廊下の前を通らなくてはいけない。
いくら音を立てずに歩いても必ずこちらを見る人がいるから、少し憂鬱になる。
いっそ走り抜ければ、少なくとも目を合わせることがなくて済む。
問題はそんな本末転倒な恥ずかしいことを出来るだけの勇気を僕は持っていないということだ。
しかしそれだけの勇気があれば、たぶん初めから見られても平気なのだろう。
まったく難しい世の中だ、と思いつつ僕は歩く。
しかし、最初の教室も、次の教室も、その次も人はいなかった。
もしかしたら学年集会か何かをしているのだろうか、と次の教室を覗くと、ようやく人がいた。
けれど一人だけ。
机の上に座って、ぼんやりと天井のあたりを見ている。
白い顔、黒い髪、白い制服、黒い眉。
白目、黒目、泣いている赤。
彼女は僕に気づき、こちらに顔を向けた。
かと思うと、すぐに顔を伏せる。
「矢吹先輩、なにしてるんですか」
「キミこそ」
先輩の声は心なしか震えて聞こえた。
「えっと、保健室から教室に戻るとこですけど」
すると先輩は突然顔を上げ、見開いた眼で僕を見た。
そしてゆっくりと眼は閉じられていき、最後に少しだけ、悲しそうな顔になった。
彼女はその感情を拭うように左手で髪をかき上げると、見慣れた笑顔を作った。
「キミ、ほんと、天然だよね。自覚してる?」
「イヤと言うほど指摘されましたからね、先輩に」
僕も笑って見せようとした。
しかし、先輩の赤い右手に気づいて、それに失敗してしまった。
「怪我……、じゃないですよね、それ」
「ああ、コレ?」
彼女は右手を軽く降ってみせると、顎の先で後ろの方を指した。
先輩の後ろ、窓際の暖房機の前の床に、誰かが倒れていた。
胸のあたりにはナイフが突き刺さっていた。
「あれ、あんまり驚かないのね」
「たぶん、まだ寝ぼけてますんで」
「じゃあ、校庭を見て。きっと目が覚める」
先輩は左手を口元に当てながら言った。
僕は言われたとおり窓の方に向かい、外をこっそり眺めた。
「全校集会……、じゃないですよね」
「同じようなもんだよ。正確には、私を説得しようの会、かな」
先輩は机から飛び降りて、こちらに近づいてきた。
「あちらの認識では、人質はまだ生きている。しかし私が本当に危険だというふうには理解している。指切り落として、投げてあげたからね」
「なんで、ですか」
「さあ、正直、覚えてない。ある程度見当はつくけど」
先輩は僕の隣で、何か呪文を唱えるように言った。
「さて、ここからが問題。ねえ、こういうとき、犯人はどんな要求をすべきかな」
「逃げる手はずを用意させるとか……。でも、難しいでしょうね」
「そう、だから問題を変えよう。キミさあ、何か要求はある?」
「学校にですか?それは、別にないですけど……、あ、お腹すきました」
「じゃあ、ご飯を食べようか。つまり、ご飯を食べ終えるまで邪魔させないのが必要になるよね」
先輩は黒板の上の時計を見た。
「一時まで、でいいかな。うん、それくらいが潮時かな」
先輩はまっすぐに転がっている人のところへ歩いていき、そしてまたすぐに戻ってきた。
右手にナイフを握って。
「ちょっとベランダに出て。一芝居打つから。キミは黙って立ってるだけでいいよ」
先輩のナイフは僕に突きつけられた。
僕は、自分でも変だというのはわかるけれど、この人に今殺されるのなら、それも悪くないんじゃないかと、ぼやけた頭で感じていた。
ベランダに出ると、たくさんの生徒に注目されるのがわかって、思わず目を逸らした。
「すごい、恥ずかしいです」
「我慢しなさい」
僕らは小声で言い合った。
横目で見ると、先輩の顔も少し赤らんでいたので、ああ、先輩も恥ずかしいのかとわかった。
「すみません!私、伊藤さんを殺しました!」
先輩が叫ぶと、眼下の喧噪はぴたりと止んだ。
「必要なら、死体をそちらに投げて証明します!で、このマヌケな男子!こいつが新しい人質です!私、また殺しちゃうかもしれません!すいませんけど、一時まで、そこを動かないでください!そうしてもらえなければ、確実に彼も刺します!いいですか!?で、一時を過ぎたら、自首します!信じてもらえますか!?もし無理なら、彼の小指でも切って、そちらに投げますけど!」
「最悪の指切りですね」
「針千本よりマシでしょ」
僕らは下の奴らの返答を待たずに教室の中へ戻った。
「さてと、それじゃあお昼にしよう」
先輩はそう言ってから、死体の方を見た。
「キミのクラスでね」

まるで現実感がない、と同時に圧倒的な現実に僕は押しつぶされる思いだった。
僕にとっては先輩の犯したらしい罪より、今先輩と一緒に弁当を食べているということのほうが、とてつもなく威力のある非日常だった。
「そういや先輩って、大学どこにするんですか?」
「さあ……、刑期が終わってから考えるよ」
「ケーキ?ああ……、すいません」
先輩は情けない弟を見るように笑った。
僕はどうにか話題を探そうと思ったけれど、適当なのは見当たらない。
「美味しそうだね、そのお弁当。お母さんが作っているの?」
「え、ああ、はい」
「いいなあ。あ、確かキミんちも片親だよね。まったく、どっちかしかいないなら母親の方が良いよ。父親は、使えない」
先輩はため息混じりにコンビニで買ったものらしいパンをかじった。
僕はなんと返したらよいものかわからず、曖昧に笑って見せた。
そしてしばらく僕らは黙って昼食を摂った。
空腹が癒えると徐々に正常を取り戻していく頭が彼女の動機を知りたがった。
でもそんなこと、聞けるわけがなかった。
先輩は左手で唇を拭うと僕に向かって微笑んだ。
「さて、そろそろ何か、学校に要求したいこと、思いついた?」
僕は首を傾げた。
「何にもないの?」
「そもそも、学校なんかに何も期待してないですから。先輩は、何かないんですか?」
彼女は椅子の背もたれに倒れかかった。
「まあ、ないね。あと数ヶ月で卒業する学校に要求したって、って感じ。でもそう、確かにキミの意見にも同感だな」
先輩は窓の方を見た。
窓の外はあいにくの曇り空。
こんな日くらい晴れていてもいいじゃないかと思ったけれど、天気がどんなだって、大した影響はない。
先輩は、静かな声で、僕の名を呼んだ。
「なんですか」
「キミは、楽しいかい」
「何がです?」
「生きていて」
先輩といられるなら、と答えたかった。
でもそれは、きっと言葉にした時点で嘘だと思ったし、僕にはそんな度胸はない。
「生きてなきゃ、楽しいことはないです」
先輩は呆れたように鼻息を漏らした。
「じゃ、学校以外に、世界に対してとか何でもいいけど、とにかく求めるものはある?」
僕は迷った。
でもきっと、こんな機会は二度とないだろう。
だから言ってしまわなくちゃいけない。
たぶん、そんな気がした。
「先輩、と、その、付き合いたいです」
「はあ?」
「先輩のこと、ずっと、好きでした」
彼女は、額に手を当ててしばらく俯いた。
そして上目遣いに僕を睨んだ。
「馬鹿じゃないの」
「すいません……」
先輩は盛大なため息をついて、振り返った。
「ああ、そろそろ時間か」
そして立ち上がり、窓の方へ歩いていった。
僕はその後ろ姿を見続けた。
「私ね、最初にキミが来たとき、助けに来てくれたんだと思った」
先輩は振り向かずに言った。
「そんなはずがないのにね。でも、おかげで気がついた。私、助けてほしかったんだ。ずっと。もう、そんなこと言える立場じゃないのにね」
「先輩」
僕が立ち上がると、それを制するように彼女は近寄ってきて、僕の目の前で止まった。
そして、僕の両肩に手を置いた。
先輩の目は、また、涙を流していた。
「これは、サービスだよ」
彼女の顔がゆっくりと近付いてきて、僕は眼を閉じた。
唇に暖かさが触れた。
けれどそれは、呆気なく離れていった。
僕は何も言えず、ただ目を開けて、彼女が再び窓際へ歩いていくのを見ていた。
彼女は一度左手を少し挙げて、こちらか、あるいは窓の外に向かって振った。
右手にはいつの間にかナイフ。
そして、ああ、そして。
窓ガラスが赤く染まった。
僕は近寄ることも出来ず、ただ先輩の首筋から吹き出る血の勢いが弱まっていくのを見た。
「卑怯だよ、そんなの」
曇天の空、雨さえ降らない。
僕は左手を持ち上げて、指で唇をなぞった。
彼女の感触は確かに思い出せた。
でも、それだけ。
彼女の言葉はもう聞こえない。
赤い窓ガラスは、ずっと昔に、教会で見たステンドグラスの、一片を思い出させた。
あのときも、確か、こんなふうにやるせなかった。
確か、たぶん、そうだった。
  1. 2007/11/01(木) 14:02:50|
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《13.さらら》

ペットショップの前で、一匹ずつ子犬に名前を付けた。
今日は日曜日。
空が忌々しいくらい晴れ渡っている。
家族連れや、恋人同士とおぼしき男女とすれ違うたびに、軽く呪詛を吐く。
けれど今日はなんだか心も晴れやかだ。
公園までの道をキチガイのようにふらふらと歩く。
行き交う車の騒音も幻想へ誘う音楽みたい。
轢かれてしまおうか!
きっとそれさえ心地よい、吹き飛ばされるイメージの自分が風のように舞う。
横断歩道、白だけ踏んで、誰にも気づかれない至福のステップ。
弱り切った街路樹も堂々と絶望している。
代わりに叫んで、思い切り泣いてやろうか!
さ、あ、ら、さ、ら。

公園の中は騒がしい木漏れ日でいっぱい。
子供たちの叫び声、利己的な笑い声。
なんて気持ちの良い不快感。
そうだ、今日は日曜日なんだ。
犬たちも散歩している。
その可愛らしさ!
ああ、キミたちこそ生きるのに相応しい。
おめでとう、ありがとう!
生まれてきて。
さようなら、さようなら!
生まれてきて。
靴ひものほどけたまま快活に歩く老人。
古く死にかけた体内は、きっと廃工場のように美しい。
なぜだろう、あくびが漏れる。
それだから、涙が出る。
ベンチの脇に看板がある。
近隣住民の願いです、野良猫たちが飢えて死ぬ様をどうか見過ごしてください。
そんな意味の言葉が目に入る。
近隣住人は、きっと神から、この周辺の生き物を統括するよう承ったのだ。
気にすることはないさ。
生き物は飢えずとも死ねるのだから。
それにしても見事な晴天じゃないか。
木陰が私の影を包む。
私の影は、私よりずっと愛されている。
だから私は木陰への愛を断ち切らなければならない。
それがルールだ!
さ、あ、さ、ららら。

明日は雨が降るだろう。
さもなければ明後日。
あるいは雨の降る場所が私だろう。
そうやって今までも生きてきた。
明日も、明後日も、きっと私は生きるだろう。
なんて気怠い。

子犬の名前はすっかり忘れた。
私よりずっと立派な名前だったのに。
それもしかし、日曜の公園というものの定めだ。
すべては重力に従い、みんな太陽にひれ伏す。
おまけの虚無感だ!
暖かな虚脱感、こっそり逝った細胞たちの覚めやらぬ宴!
ぐるぐると感覚がかき混ぜられる、眩暈がする。
さらら、さらさら、ららら、さら。
  1. 2007/10/29(月) 03:51:40|
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《12.自生》

裏庭の隅の、朽ちかけた杉の根本に、左手がひっそりと生えているのを見つけた。
肉付きの良い小さな手で、赤ん坊のそれと大体同じ大きさだった。
初めて見たときは大層驚いたが、手のひらに指で触れてみるとしっかりと握って見せたので、ああ、生きているのだと私は安心した。
柔らかな手に触れていると、だんだんそれが可愛らしいもののように思えてきて、私は妻を呼んで彼女にも見てもらいたくなった。
けれど妻は最近少し精神が不安定であり、そして彼女は元々植物も子供もあまり好まない。
この手がいったい何であれ、きっと彼女には見せぬ方が良いだろう。
共有できない愛おしさに寂しさを感じたが、それでもいっそう手は可愛らしかったので、私はできる限り世話をすることに決めた。
それがちょうど五ヶ月前の、六月のはじめの頃だった。

私はそれから毎日水をくれてやり、虫にたかられていれば払ってやった。
雨が降った翌日などに泥に汚れていれば拭いてやり、あんまり爪が伸びたら切ってやったりした。
手はすくすくと成長を続け、夏が終わる頃には、人間で言えば肘くらいのあたりまで腕が伸びた。
一度何かがぶつかったのか、親指の付け根あたりから血が出ていたことがあった。
怪我はすぐに癒えたが、心配になり、私は家の中から調度良い具合の箱を持ってきて、それを手の上から被せた。
これで安心だろうと思っていたが、しかし二、三日もすると手は見る見る元気をなくしていってしまった。
それで、どうやらこの子は日光に当てる必要があるらしいとわかった。

それからもうしばらくして、私は再び驚いた。
手の隣に今度は右手が生えてきていたからだ。
もしかするとこれはシダ植物の類なのかもしれない。
あるいはタチの悪い、私自身の幻覚か。
思い切って私は知り合いの教授に相談してみることにした。
彼は笑顔で私の訪問を迎えてくれたが、どうも内心迷惑がっているらしいことが彼の表情から伺えた。
申し訳なく思いつつ、事の次第を簡潔に話してみると彼は唸りながら天井を見上げた。
「やはり、こんなこと、ありえないだろうね」
「いや、ありえなくはないとも。それに現に生えているのだろう?」
私は頷いた。
それから彼はわけの分からない言葉を延々と話し続けた。
彼はいつもこうやって遠回しの罵詈雑言を私に浴びせる。
でも彼が善人であることはわかっているので、私は黙って話を聞き、礼を言って彼の部屋を出た。
彼の話で理解できたことのうち、重要なのは、庭に手が自生することもありえないことではないという、私にとって分かり切ったことだけだ。
しかしそれでも、私は安堵した。
あれはあっていけないものではないと確認できたのだから。
家に帰った私は真っ先に件の両手のもとへ行き、軽く指をつかんでみた。
すると両手はどちらも同じように握り返してくれた。
私は腹の底から暖かさが沸いてくるのを感じた。

そしてひとつき前のこと。
私がいつものように両手に水をあげに行くと、両手のちょうど真ん中の土がこんもりと膨らんでいることに気づいた。
ああ、いよいよ頭が生えてくるのだと私にはわかった。
頭がいつか生えるだろう事は、ずっと以前から予想できていた。
思い至った当初は、それはとても恐ろしいことだ感じていたが、それが自然なのだから生えるのは仕方ない。
その頃にはむしろ多少なりとも楽しみでさえあったので、私は土の膨れたその部分にも優しく水をかけてやった。
頭は毎日ゆっくりと伸び、一週間ほどしてようやく顔のすべてが土の上に出た。
それはまるで生まれたての赤子そのものの顔で、目は閉じられたまま皮膚もふやけているように見えた。
口はときどきモゴモゴと動きを見せたが、決して音を発さず、どれほど泣きそうな表情でも全く泣かないので、これは赤子に似ているが同じではないのだと理解させられた。

そうして顔もだんだんと成長していった。
ふやけたような皮膚も次第にふっくらとして、不思議と表情を豊かにしていった。
けれど今もなお瞼は開かれない。
しかし瞼の奥にコロコロと何かが動いているのは見て取れる。
それはもしかしたら瞳かもしれないし、あるいは種が詰まっているのかもしれない。
それを無理矢理に開いてみる勇気は、今の私にはない。
きっと幼少の頃の私なら、すぐにそうしただろうけれど。
私はしゃがみ込み、ゆっくりとそれの頬に触れた。
とても柔らかい、しかしとても冷たい頬。
あの子と同じだ。
あの子の頬も、同じように冷たかった。
そういえば、これの顔は、どこかあの子に似ているような気がする。
そして私とも、妻とも似ているように思える。
妻に教えてあげたら、喜んでくれるだろうか。
もう一度私と、今度はこれを大切にしてくれるだろうか。
振り向いて、私は家の方を見た。
いや、よそう。
もう彼女はすっかり狂ってしまったのだ。
彼女は、可哀想な人だ。
これ以上何かを与えようとしても、それが何であれ、そのことによって彼女は苦しむ。
妻は壊れてしまったのだ。
もう、どうしようもないのだ。

私は顔に向き直り、頬に触れたままの指を動かし、くすぐってみた。
顔は音もなくケラケラと笑った。
あの子も確かこんなふうに笑っていた。
そう思ったけれど、実際のところ、私はもうあの子の笑顔を鮮明に思い出すことができなかった。
  1. 2007/10/28(日) 04:14:32|
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《11.普通破裂》

「そんでさ、クリスマスプレゼントとかもトイレの前に置いてあったりしてさ。まったく、頭がおかしいわけ、うちのサンタは」
「あはは。いいなぁ、そういうの」
「全然。何が良いわけ?」
「うちはさあ、もうほんとに、何の笑い話にもなんない平凡な家だし。ほら、俺自身も退屈なくらい平凡だろ?」
「んー。でも在り来たりに言えば、普通が一番じゃない」
「普通すぎるんだよね、マジで」
僕は深くため息を吐いた。
本当に、どうしてこんなにも普通で平凡で退屈な境遇に生まれてしまったのだろう。
いつも思う。
もう少しヘンテコで、もう少しスパイスのある日常が僕にだってあってもよかったんじゃないかと。
やがて友人と別れる道まで差し掛かり、いつも通り僕はテキトーに手を振って別れを告げた。
「あ、でもさ」
そのとき、友人が急に可笑しそうな声で言った。
「もしかしたら、アンタが知らないだけで、アンタんちだって普通じゃないのかもしれないよ」
「はあ?」
「あまりにもありふれた家庭に感じるのは、本当のことを隠そうとした結果なのかも」
しばらく僕は友人の言うとおりの世界を妄想してみて、それから首をゆっくりと横に振った。
「アホらし」
「でも、否定はできないでしょ」
「あーあ。じゃ、また明日」
「うん、また明日」
可能性で言えば確かにないとは言えないけれど、うちに限って言えばあり得ないと断言できる。
根拠はないが、それを提示する必要がないくらい、そんなことはわかりきっている。
家に帰れば母が夕飯の支度をしていて、やがて兄と父も帰宅。
くだらないテレビ番組で間を持たせながら夕食を摂って、たいした会話もなく各々自室に帰還。
そして次の日を迎えて、ずっとそれを繰り返して、いつか僕は家を出るだろうけど、家ではきっとその後も同じような繰り返しを続けていく。
何十年先だって見渡せるくらい平坦なのだ、僕の家は。
それが悪いだなんて全く思わない。
でも、面白味に欠けていることは確かなんだ。
健全な一高校生の僕にとって、不健全なくらい健全な家庭。
不幸ではないけれど、僕は少し不運ではないかとときどき考えてしまう。
僕はまた、ため息を吐いた。

曲がり角を曲がると、うちの前に青いスポーツカーが止まっているのが見えた。
おそらく隣の家の知り合いのものだろう。
隣には駐車場がないから、ときどきこんなふうに、うちの前に止められる。
僕は気にせずに玄関のドアを開けた。
「ただいま」
返事はなかった。
ただ、奥の、たぶん寝室の方から物音は聞こえるから、一応いるのだろう。
僕はそのままリビングに入り、ソファに腰掛けてテレビの電源を入れた。
今の時間帯はどうせつまらないニュースしかやっていないけれど、自室へ行くために階段を上るのが億劫だ。
夕飯まで、だらだらしていようと思った。

テレビでは、どの局も今まさに起こっているらしい犯人の立てこもり事件を報道していた。
僕はケータイをいじりながら、ぼんやりとそれを聞く。
事件はどうも、うちの県のK市で起こっているようだ。
現場である何とかという建物を僕は知らないけれど、K市の高校に通う兄なら知っているかもしれない。
場合によっては、今、現場にいるかもしれない。
あの人、結構野次馬だから。
そんなことを考えていると、テレビから意外な声が聞こえた。
「高林ぃー!出て来ーいッ」
犯人の友人とやらが説得を試みているらしい。
見たところ、その友人氏の着ている服は兄と同じ高校のものであり、ついでに、うちは、高林だ。
「トムー!お願いだ、頼むッ、人質を放してやれー!」
こんなのをテレビで放送して良いのだろうか、そして彼らは映されていることを知っていて、そんな恥ずかしいあだ名を叫んでいるのだろうか。
いやいや、そうじゃなくて、肝心なことはうちの兄、高林勤のあだ名が奇遇にもトムだということだ。
奇遇?
いや、でも、だって。
そのとき突然レポータが叫んだ。
「今!犯人が窓から顔を出し!何か叫んでいます!」
テレビに映されたのは、紛れもなく、うちの兄だった。
僕は咄嗟にテレビの電源を落とした。
「あ、帰ってたんだ」
振り返ると母が見慣れない黒い服を着た姿で立っていた。
「母さん。母さん、あの」
僕はテレビをつけるべきか否か、迷った。
「兄さんが、その」
「ごめんね、母さん時間がないんだ。ちょっと用事があって」
そう言うと母は、何故か悲しそうに首を横に振った。
「ああ、もう母さんだなんて名乗る資格、ないんだな」
「は、何言ってんの?」
「理解できないだろうけど、お願いだから聞いて。私ね、今まで黙ってたけど、ある大きな組織の幹部なんだ」
「はあ?」
「冗談じゃなくて。それで、まあ簡単に言えば、抗争で、行かなければならなくなったのよ」
「母さん?」
「もう、ここには帰ってこれない。ごめんね。でも今まで、私、とても幸せだった。それだけは、知っておいて。忘れてもいいから」
母の言葉の真偽はともかく、涙を流しながら微笑もうとするその顔は、とてもつらく悲しそうに見えた。
「じゃあ、ね」
「母さん!」
僕は大きな声でその名を呼んだけれど、彼女は振り返ることなく去っていった。
玄関の方から音がして、やがて車が走り去っていくのが聞こえた。
僕は、追いかけることもせず、さっきまで母の立っていた場所をしばらく眺めていた。

いったい何の冗談だろう。
まったくわけがわからない。
ようやく姿勢を元に戻して、僕はテレビのリモコンを見つめた。
電源をつければまだ兄が報道されているに違いない。
それとも、もう捕まってしまっただろうか。
僕は立ち上がり、母の寝室を見てみることにした。
暗い廊下に出て、いやに静かなこの空間に少し恐ろしさを感じた。
急ぎ足で寝室のドアの前まで行く。
けれどドアの前で、僕は再び固まった。
ここを開けたら、テレビをつけるのと同じように、もう取り返しが付かないことだと理解してしまうのではないか。
でも、事実、取り返しが付かないのなら、開けたって開けなくたって同じことだ。
開けたいか、知りたいか、僕は。
そのとき、中で物音がした。
僕は思わずドアを開けていた。
サイドテーブルの明かりだけが照らす室内、ベッドの下に、父がうつ伏せに眠っていた。
違う、倒れているのだ。
「父さん!」
僕は父に駆け寄った。
体を揺すってみる。
手のひらに当たる父の感触が、心なしか堅い。
揺すっても、揺すっても、何の反応もない。
「父さん……、父さん!」
「ついに、見つかってしまったな」
驚いて振り返ると、ドアの脇に父と同じ姿をした男が立っていた。
僕は、倒れている父とその男とを見比べた。
「安心しなさい。それはキミの父ではない。まあ、死んでしまってはいるが」
「誰……?」
「キミがそれを父と呼ぶなら、私もキミの父だ」
男は父と同じ顔で、ばつが悪そうに口の端を上げた。
「どういうこと」
「キミの父、高林昌明は、人間ではないのだよ」
僕は首を横に振った。
「ある研究施設で開発された、わかりやすく言えば、菌類だ。この、私のような体を一つの単位として、増殖する」
「なんだよ、それ」
「高林昌明は、正確に言えばプロジェクトの名前だ。我々がキミらと関わることで、どういった影響がもたらされるか、それが研究されていた」
「じ、じゃあ、僕も菌類なの」
「いや、キミは人間だ。元々施設にいたのを養子として預かった」
「母さんは」
「彼女はただの協力者。我々も、その代償として彼女に協力した。もう、行ってしまったがね」
僕は、この場から立ち去ることにした。
もう何も聞きたくなかった。
男はドアの前に立ちふさがったけれど、「どいて」と言ったらすんなり引き下がってくれた。
暗い廊下を歩きながら、僕は何とか、今までの普通を思い出そうとした。
でも、どんなだったろう。
あまりにも普通で、平凡で退屈な我が家は、いったいどんなだったろう。
鮮明な記憶さえ残さないほど、穏やかだったんだ。
たしか、たぶん、そうだった。

暗い自室に入った。
いつもと何も変わらない、散らかった僕の部屋。
僕は椅子に座り、机に突っ伏した。
遠くに、パトカーのサイレンが聞こえる。
家の前の道を笑い声が通り過ぎる。
あとはもう、静まり返る。
うち以外にとって、僕以外にとっては、今も昨日と変わりのない平穏な時なのだろう。
僕は明日、どうすれば良いのだろう。
全然わからない、わかりたくない。
「おい」
声がした。
顔の下から。
聞いたことのない声だった。
「おい」
「誰?」
「机だよ、机」
「机が喋るなバカ」
「そういう口の聞き方は、お前の品位を下げるだけだぞ」
机はおどけるように言った。
「まあいい。あのな、俺、今までお前の机としてやってきたけどな、それもどうやら今日までだ」
机までがわけの分からないことを言い始める。
「お迎えが来た机はな、天に還らなきゃなんないんだ」
「ふざけんな」
「あ?」
「ふざけんなバカ!机が喋んな!物理法則に従え!常識をわきまえろ!バカ!」
僕は叫んだ。
父に聞こえただろうかと思い、もはや必要のない恥じらいを感じる自分を、腹立たしく思いながら。
「守ってきたさ、今まで」
机は諭すような声で言った。
「お前のために、常識的にやってきた。でも同時に、それが真実ではないとわかるようなヒントも出してきた。お前に気づいてほしかったからな。でもお前は、いつまでも常識に甘んじ、それ以上何も知ろうとしなかった。それは悪いことじゃない。それは普通のことだ。俺は責めない。けれど、真実は変えられない」
じゃあ、今までありがとよ、と声が聞こえると、一瞬で、あっさりと机は消え去ってしまった。
僕は呆然と椅子に座ったまま、ゆっくりと目を落とした。
左手が目に付いた。
左手は「気にするなよ」と慰めてくれた。
お前まで喋るのかよ、と僕が言うと左手は笑って否定した。
「ただの幻聴だよ。左手が、喋るわけがない」
  1. 2007/10/27(土) 02:17:28|
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