シッタカブリオーネ

虚言・妄言・支離滅裂

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【FFCCクリア】

DSのFFCCをクリアした。
うーん、まあまあかな、悪くはない。
ストーリーがエンディングによって台無しにされた気分だけど、全体で60点くらいはあげたいかな。
ええ、まあ、泣きはしましたよ。
でも、泣けるって要素は、個人的に大したものじゃないので。

それにしてもラスボスさん、よくよく考えてみると、ちょっと可哀相というかなんというか。
実質被害者は三人しかいないんではないか、今作。
それで散々ボコられたり、終いにはあんな仕打ちとは、いまどきの悪役ってのも、結構大変なものなのね、と思ったり。

あでも、そうでもないか。
実際マリオだって、姫一人さらったおかげで、クッパ達の被害は尋常じゃないもんなあ。
ヒーローの過剰な正義は、今に始まった話ではないか。

アンパンマンも、ちょっとイジワルをしたバイキンマンを半端じゃない力で殴り飛ばすしなあ。
いやはや、恐ろしいこってす。
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  1. 2007/08/26(日) 04:21:46|
  2. 日常
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《記憶にございません》

働けど働けど、尚我が生活楽にならず
そっと屁をこく

という罰当たりでそれでいて、よくよく考えるとまあまあ深いパロディな歌が、最近ことあるごとに頭に思い浮かぶのですが、病気ですかそうですか。
このパロディ自体はずっと昔から頭の中にはあったんだけど、どこで見たのか、あるいはオリジナルなのか全然覚えていない、痴呆ですねそうですね。


あ、あともう一つ。

わけ言っても、わけ言っても、青い顔

取り返しがつかないときに詠むとよろしいかと思われます。
  1. 2007/08/25(土) 04:56:04|
  2. 妄言
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【持たない現実】

こうして末永く幸せに暮らしましたとさ。
と幕を閉じる童話は少なくないと思うけれど、どうなんだろう。
物語終了直前の幸福感が延々と持続するわけはないし、それと同等のあるいは越える程の幸福感が得られることがあったとは思えない。
もしそうであれば、きっとそれも語られただろうから。

強烈な出来事とは、良いものにせよ悪いものにせよ体験者に多大な影響をもたらし、体験者はことあるごとにそれを振り返る。
物語になり得る程の幸福感を味わってしまえば、大抵の場合、長い時を隔てなければそれはリセットされず、体験者のその後の出来事を相対的に不幸に見せる。
もちろん全てに対して体験者が不幸を感じるということではないけれど、常にそういう見方ができるという状況はとても不安定だと言えるし、歪んでいると思われる。


虚構ではなく日常に、そういった幸福と言える特異点が生じることを想定してみる。
それはきっと、大きな目標や夢が現実化するとき生じると思われる。
それらが、達成されるまでの人生において比重が大きいほど、その後はある意味でエピローグ、後日談と捉えることができよう。
そんな特異点は、生き続けることを第一に考えるとき、ない方が良い。

何の目標もなく、何の夢も持たない生き方は、長く生きようとする意志と言えないこともない。
健康に長生きすることを第一にしているような老人が、目標を持て、夢を抱けと子供に言う。
ひどく滑稽だ。
目標や夢が本当は命を懸けるものだと知っている子供は、成長し、まだ生き続けている自分は目標や夢を持つことが出来なかったと思い知る。
“目標”や“夢”という言葉自体にコンプレックスを持つ大人は、それが無いことを隠したり、それをコテコテに装飾して流布したりする。

夢なんてなくても、目標なんて持たなくても、生き続ける自分を肯定してあげればいいじゃないか。
それではだめなのか。
生き続けることを、醜くしているのは、そんな在り方のためではないのか。


と自分に対して問うてみたりする午前0時。
うーん……。
  1. 2007/08/23(木) 00:14:04|
  2. 日常
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なまめかしい・アルコールランプ

夏と言えば怪談、都市伝説。
お盆も過ぎて蝉の声も少し静かになった今日この頃ですが、まだまだ暑い日は続いています。
そんなわけでここは一つ、怪談話でも書いてみようと思います。
たいした話ではありませんが、読んでいただければこれ幸い。
さて、それでは始めましょうか。


某市立中学校に通うT君は、夏休みにも関わらず学校へと向かって自転車を漕いでいました。
しかし彼は運動部などに所属していませんでしたし、その日は補習もありませんでした。
もともとインドア派、有り体に言えば引きこもり気味のT君です。
その彼がわざわざ汗を流しながら学校へ向かうのには、当然理由がありました。

T君は学校に到着すると、まっすぐに化学実験室を目指しました。
実験室にはクラスメートのO君が一人、窓の方に立っていました。
「ごめんね。部員でもないのに、わざわざ来てもらって」
「いいよ、俺が手伝いたいってお願いしたんだから」
O君は化学部員で、実験室で飼っているモルモットの世話をしなくてはならなかったのです。
ケージを掃除したりするのには確かに誰かが手伝ってくれると楽なのですが、けして一人で出来ないことではありません。
二人は友人と呼べるほどの仲ではありませんでしたので、わざわざ前日にメールを寄越してまで手伝おうとするT君の親切が、O君にはとても不可解でした。

程なくして仕事を終えた彼らは、実験室を出て帰ろうとしていました。
すると突然、T君は言いました。
「あ、いけね。実験室にちょっと忘れ物をしてきた」
しかしもともとT君は手ぶら同然に見えましたし、彼が私物を実験室で取り出していた記憶がO君にはありません。
「一緒に行く?」
何か怪しいと感じたO君でしたが、彼は気が弱いのでこんな提案が精々でした。
「いや、いい」
「でも…」
「大丈夫だから、ちょっと待ってて」
手伝ってもらった手前、それ以上何も言えなかったO君は、強引に走り去るT君の後ろ姿をぼんやりと見つめていました。

やがてT君が戻ってきて、再び二人は歩き始めました。
ところが、玄関の近くに差し掛かったときです。
O君がさり気なく、さっきはいったい何を取りに行ったのかを訊こうか訊くまいか迷っていると、T君が「あっ」とわざとらしく言いました。
「そういえば、俺、ちょっと教室に用事があったんだ。ごめんO君、悪いけど先に帰ってて」
O君は嘘だろうと感じていましたが、同時にもう関わらない方がいいなと思ったので、T君に別れを告げて帰っていきました。


さて、このあからさまに怪しいT君の目的とはいったい何なのでしょうか。
時間を少し遡り、これは前々日、T君が友人K君宅でウダウダしていた時のことです。
「そういえばお前、“なまめかしいアルコールランプ”の話、知ってる?」
K君はT君に訊ねました。
T君はそんなものを聞いたことはなかったので、正直にそう答えました。
「うちの学校の化学実験室に、なんかそういうのがあるらしい」
K君の話によると、一見それは普通のアルコールランプなのだが、何でも夜中それに火をつけると、とてもイヤラシイ幻覚を見ることが出来るらしい。
「そんなのあるわけないじゃん」
いくらT君といえど、一応ほんの僅かな常識は持たなくもないので、最初はあまり信じませんでした。
しかし能弁なK君は続けます。
「だけど、ほら、マッチ売りの少女ってあるじゃん。あれも同じように幻覚をマッチの火によって見てる。燃焼とは結局酸化のことで、つまり化学反応だって習ったろ?で、そのとき脳に幻覚を見せる何かも発生してるとすれば、ありえるだろ」
「で、でもさ、今例えばマッチに火をつけてもさ、幻覚なんて見えないじゃん」
「だから、普通は発生しない何かが必要ってことだろ。燃える物によって発生するものも違うんだからさ、つまりマッチ売りの少女のマッチも“なまめかしいアルコールランプ”も元々が特殊な何かってこと。だから、それじゃなくちゃ見られないんだろ」
「そっか…、だけどさ、そのアルコールランプさ、見分けがつかないなら実験で普通に使われてるじゃん」
「だから、夜中だけって言っただろ?マッチ売りの少女も夜中だし、たぶん夜中にしか出ない脳内物質と、その幻覚を見させる何かが反応して、それで幻覚を見るんだろ」
「ふーん。ま、まあ、でもさ実験室って普通夜は鍵がかかってるだろうけどね」
とまあ、T君はこんな具合に信じてしまったわけです。
別に、信じるだけであれば問題ないのですが、T君、最後にK君にだめ押しの入れ知恵をされてしまいました。
「あ、そういえばウチらのクラスのOって化学部らしいんだけど、あいつがさ、明後日実験室に行くらしい。で、便乗して中に入って、ほら実験室って廊下側に小窓があるじゃん。あそこの鍵を開けとけば、入れないことはないよな」


恐ろしいのはバケモノよりも人間だ、というのはよく聞かれることです。
K君の戯言を“イヤラシイ幻覚”という餌につられて信じてしまったT君。
彼は計画実行の翌日、実験室で倒れているところを発見されました。
幸い大事には至りませんでしたが、彼は軽度の一酸化中毒と脱水症状、そして顔面に軽いやけどを負っていたそうです。

話を聞いたK君とO君は大笑いをした後、顔を青ざめたそうです。
現実に考えると、そんなど阿呆が身近にいることは、確かに恐ろしいことかもしれません…。
ちなみに、発見されたときの状況ですが、尋常じゃない量のアルコールランプに囲まれたT君は、意外にも恍惚とした表情を浮かべていたそうな。
合掌……。
  1. 2007/08/21(火) 12:37:04|
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賢い・シベリアンハスキー

“シベリアンハスキー”は学校の近くの廃工場に住む野良犬で、僕らはよく給食に出たパンなどを持って行って彼に食べさせていた。
“シベリアンハスキー” は痩せているくせに、僕らがそうすることをあまり喜んではいないようだったし、残さず食べはするものの、その表情はいつも不満げに見えた。
「きっと、こいつ、病気なんだよ」
確か誰かがそんなことを言っていた。
もしかしたらそうだったのかもしれない。
それに見るからに老いぼれの犬だったこともあって、僕らは彼がもう長くは生きないということくらい、理解していた。
他の奴らがどうだったのか知らないけれど、僕はそうだからこそ、彼に会いに通っていたのだと思う。
会う度に、まだ生きている彼の姿にほんの少し落胆し、そして同時にいつかくる彼の屍と対面する時のことを思って、息が詰まるのを楽しんでいた。
決して死んでほしかったわけではない。
どちらかと言えば、その逆を願っていたくらいだ。
でも生き物は、どのように望もうといつか死んでしまう。
それは当時、物語やテレビで学んだことで、僕はその不条理を日常の実感として味わいたかったのだと思う。
今となっては推測としてしか語れないことだけれど、もし目の前にあのころの自分がいたとしても、僕は咎めることも止めさせることもしないだろう。
それは特に非難できることではないと思うから。


しかし“シベリアンハスキー”は、ある日突然いなくなってしまった。
彼は上級生にときどき苛められていたから、もしかしたらどこか別の場所に逃げていってしまったのかもしれない。
あるいは誰かが要請して、保健所の人に連れて行かれてしまったのかもしれない。
彼がどうなったのか、僕にはわからないけれど、結局僕は彼の屍を見ることはできなかった。
僕は少しだけ悲しい気持ちになって、そしてそれは結構ありきたりな感情だったので、楽しむことはできなかった。


ところで“シベリアンハスキー”は、本当はシベリアンハスキーではなかった。
もしかしたらシベリアンハスキーの血を引いていたかもしれないけれど、どちらかと言えば彼は日本の犬種に近い雑種だった。
なぜ彼が“シベリアンハスキー”と呼ばれていたかと言うと、それは彼の瞳が青色だったからだ。
近所で彼と同じような瞳の犬を見たことはないから、おそらく彼の遺伝子が残されることはなかったのだと思う。
今では廃工場さえもなくなり、彼のいた情景は少数の人の記憶の中にしか残っていない。


けれど。
僕は、実家に帰る度に、想像してしまうのだ。
ひょっとすると、彼はまだ、どこかで生きているのではないか、と。
常識的に考えれば、そんなことはあり得ない。
けれど僕は、彼の屍を目にしていないのだ。
餌を不満げに食べていたのは、彼が食べないでも生きていられるものだったからなのかもしれない。
それともそんなことがあるはずはないと、誰か証明できるのか?
彼自身で実験しなければ不可能なことだというのに。


ともかく、彼の屍を見ることができなかったために、僕の中で彼は死を取り上げられたまま、ずっと記憶に居座り続けている。
あの青い瞳は、誰にも受け継がれず、そして閉じられずにいたことによって、彼という特異点を僕の中に永遠にした。
それもまた一種の自己保存と考えるならば、あらゆる死をも乗り越えている彼は、僕にとって憧れの存在だ。
僕にとっての僕は、けしてそうなることはできないから。
  1. 2007/08/19(日) 04:52:21|
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暗い・納豆

ここは、とある家庭の冷蔵庫の中。
コンプレッサの唸り声に紛れて、食材達が密やかに会話をしています。
おや、“ごはんですよ”が大きなため息をつきましたよ。
いったいどうしたのでしょうか。
隣にいた“野菜炒め”が心配そうに声をかけます。
「なに、あんた、ため息なんてらしくないね。どうしたのさ」
「どうしたもこうしたもないですよ。わかるでしょう?僕が食い尽くされて、ここから解放されるのはいつなんだろうって、そう思っただけですよ」
「そんなこと」
“野菜炒め”は嘲るように言いました。
「そんなことでいちいちため息をつくのは、ここじゃあんたくらいだよ」
「僕は…、僕はアナタ達とは違うんです。あと白米一杯、たったそれだけで終われるんですよ」
「そのセリフ、三週間前にも聞いたよ。あんた、細菌にやられちまっているんじゃないのかい」
「う、うるさいッ。すっかり傷んだ野菜炒めのアナタに、そんなこと言われる筋合いはないですよッ」
「おやまあ、言ってくれるじゃないか。なら教えてあげるがね、あんた、自分じゃ気づいていないだろうけど、蓋がずいぶんベタついてきてるよ。それじゃあ、人間たちは手に取らないだろうさ」
「黙れッ。ぼ、僕は…、僕の蓋は」
「止めないか、ふた品とも」
彼らの言い争いを止めたのは、納豆でした。
納豆はこのあたりでは一番古くからいるので、みんな納豆の言うことにはよく従いました。
「ごはんですよ、お前の気持ちも分からんではないが、もう少し周りのものの気持ちも考えるべきではないか」
「まったくだね」
「野菜炒めもだ」
ほれ見たことか、と調子に乗った野菜炒めに納豆は厳しい口調で言いました。
「今日のお前は、ごはんですよ以上にらしくない……。妹のことは気の毒だが、それで周囲に当たってはいかん」
「妹?なんのことですか?」
「納豆ッ!」
“ごはんですよ”の疑問を遮るかのように野菜炒めは叫びました。
「こ奴には、別の取り皿によそられた双子の妹がおったのだ。気だての良い子だったが、生まれつき汁の量が多めでな…。今朝方、人間どもに連れて行かれたが、おそらく…」
「あの子は、きっと、人間に食べられたさ。あたしより、ずっと、肉の量だって多かったんだ」
「あるいは、そうかもしれんな…」
「あの…、納豆はなんでそんなことを知っているんですか」
話題を変えたかったのでしょうか。
“ごはんですよ”は納豆に訊ねました。
「ワシぐらいになると、いろいろな場所に移され、いろいろな奴から情報が入るようになるのだよ。望まずともな」
納豆は、自嘲するように言いました。
「さて、そろそろ晩御飯の時間だ」
「ああ、きっと僕、今回こそ食べられるに違いないです」
“ごはんですよ”は祈るように小さく言いました。
けれどそんな“ごはんですよ”に納豆は問い掛けます。
「人間に食べられることは、果たして幸せなことだろうか」
「当たり前じゃないですか。だって僕ら、そのために保存されているんですよ?」
「ああ、そうだろうとも」
納豆は頷きました。
しかし心の中ではこうも考えていました。
『だがそれは、食品としての幸福だ。ずっと食われないワシは、果たして食品と言えるだろうか。そして本当に、ワシの幸せは、食われること以外にあり得ないのだろうか』
「しかし、わからん。ワシにはわからんよ」
「考えるまでもないことだと思いますけど…。僕には、納豆が何故わからないのかが、わからないですよ」
不満げな“ごはんですよ”に、野菜炒めは諭すように言いました。
「いつかあんたにも、わかる時がくるだろうさ。もっとも、あんたはそれを望んじゃいないだろうけど」

やがて、冷蔵庫は開かれ、 いくつかの食材たちは人間の手によって食卓へと運ばれていくのでした。
  1. 2007/08/18(土) 04:08:21|
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腐りやすい・三段落ち

テンポの良さ、発想のしやすさなどから多くの人に親しまれている三段落ちには三つの種類があって、①腐りにくい三段落ち②腐りやすい三段落ち③その他、に分類することが可能である。
言わずもがな大半の三段落ちはその他に含まれているのだが(そしてそのほとんどが、別に腐ることはない三段落ちである)、今回はあえて腐りやすい三段落ちに注目してみたい。
そもそも腐りやすい三段落ちとはいったいどのようなものであるのか。
腐りやすいと言っても、もちろん三段落ちは食べ物ではないし、まして動物の死骸ではない。
なので比喩的な用法としての、気落ちしやすいといった意味として解釈してみる。
すると腐りやすい三段落ちは言い換えるならば、気落ちしやすい三段落ちということになる。
気落ちしやすい三段落ち……?
ま、まあ、もとより無理は覚悟の上だ。
後悔後先考えず、だ(意味は特にない)。


気落ちする、とはがっかりして気力が萎えることである。
考えてみるに、気落ちする三段落ちというのは多少ありそうだ。
具体的に言えば、上手いこと受けを狙おうとして三段落ちで何か言ってみた結果、サイコホラーサスペンスな映画の如き戦慄の空間が生じてしまったりした場合、言った者にも聞いた者にも気落ちする三段落ちであると言えよう。
しかしこれでは三段落ちで腐る、頑張っても腐らせる三段落ちであり、無理をすれば腐敗臭漂う三段落ちと言えなくもないが、言ったところで仕方がない。
問題はあくまでも、腐りやすい三段落ちなのだ。


腐りやすい、あるいは気落ちしやすい。
もし仮に、三段落ち太郎なる人物が存在すれば、表現として使用できなくもないが、今回は別に三段落ち家を巡るお話ではないので、太郎君には申し訳ないが、キミは別にいてもいなくてもどうだっていい。
そうではなく、傾向として、どうもそういった類の三段落ちを聞くと多くの人は気落ちしてしまう、というようなジャンルがあれば良いのだ。
今まで三段落ちのジャンルなど聞いたことがないが、だからと言ってそれがないとは限らない。
希望を捨てず諦めないことこそが、人間の文明を発展させてきたのである(潔い諦めと同じくらい大事だろう)。


さて、気落ちさせやすい、がっかりさせやすいものとはどういったものだろうか。
がっかりするとは、期待しなければ生じ得ない感情である。
そしてその期待に結果が反していたとき、人はがっかりするものだ。
そこから、がっかりさせやすい三段落ちは、常に期待に反しているべきであると理解されよう。
では、がっかりさせやすい、腐りやすい三段落ちとは端的に面白くない三段落ちのことであろうか。
しかし、面白い面白くないというのはあまりにも主観的であるし、誰でもが分類できるジャンルという形にはなり得ないだろう。
だが三段落ちを聞く者が期待していると想定されるものは他にあるだろうか。
それが、実はあるのだ。


それはすなわち、三段落ちという形式そのものである。
三段落ちを聞く者は、二度のフリを聞いた後、必ずオチがくると期待していると言える。
ならば、これをこそ裏切ってしまえばよいではないか。

最早結論は出た。
腐りやすい三段落ちとは、三段目でオチがこない三段落ちのことだったのである。
三段目でオチなければ、それは三段落ちとは言えないのではないか、という意見があるかもしれないが、落とさないこともオチが期待されている状況においては一種のオチなのである。
ただ、ここで問題なのは、これが三段落ちであるためには、予め聞く者が三段落ちがくると予測していなければならないことである。
なので日常において腐りやすい三段落ちを試みる場合、最も簡単なのが、発言者が一番最初に「三段落ち行きまーす」と宣言することだ。
しかし現実的に考えると大半の場合、その時点で何というか、腐ることは確定しているだろう。
もしかしたら死んでいるのかもしれない、羞恥心とか理性全般が。
  1. 2007/08/17(金) 02:17:03|
  2. 嘘八百並べ立て祭り
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煩わしい・鳥の糞

えー、ワタクシ、幼い時分に剣道を習っておりまして、週に二度ほど古びた村立の体育館で稽古を行うのですが、いかにしてさぼってやろうかと、まあ、毎回そんなことばかり考えておりました。
そんな風でございましたから、体育館に着いても稽古よりも友人達とふざけて遊んだりすることばかりに熱中して、時に羽目を外しすぎるあまり先生方から叱られることも少なくありませんでした。
今となっては良い思い出、とひと括りにして片づけられるほどワタクシは未だ成長できてもおりませんが、いつか大成した暁には、あれらの経験のお陰でもあるのだと肯定してやりたい記憶達でもございます。


さて、あれは今の時期のように暑い、確かそう、夏のことでございました。
日が沈みかけてもなお涼しいとは言い難い体育館の中で、ワタクシたちは稽古までのひとときをサッカーボールを追いかけながら過ごしておりました。
築何十年かわからない古くさい体育館です。
無論、室内で球技をするようになど配慮されてもおらず、窓も薄っぺらなガラスが填められているだけで、風が吹けばカタカタと音を立てるいかにも脆いものでした。
そんなところでサッカーをしていれば、いくら子供が非力だといっても、いつかガラスを割ってしまう、それがお約束というものです。

そんなわけで、不運にもワタクシの蹴ったボールはガラスを割ってしまいました。
そんなとき恥ずかしながらワタクシは、卑怯で頭の宜しくない子でしたから、キーパーに「お前が取れなかったのが悪い」と言ったり、仲間のフォワードに「お前のパスが悪かった」、さらにボールの持ち主に「これはボールのせいであり、お前の責任だ」等々、本当にどうしようもない阿呆な言いがかりで自らの責任を免れようとばかりしておりました。
そんなことをしているうちにも刻々と稽古の時間は近づいてくるのでありまして、何の対処もガラスの片付けもせぬまま、やがて先生が体育館に光臨なさってしまったのでございます。

先生にまず言葉と運動エネルギーによるお叱りを受けた後、ワタクシたちは二時間ほど体育館の入り口で正座をさせられることとなりました。
この体育館の入り口というのがなかなかくせ者で、なにぶん田舎の建物ということもありまして、鳥達がそのちょうど上の部分に巣を作って居座ることが頻繁にありました。
そのため、その下の、すなわちワタクシたちが座らねばならない場所には、白い鳥どもの糞が何かの模様を描くように、びっしりこびり付いているのでございます。
ここに正座をするのは、バカな子供にとっても屈辱的な、ある種拷問に近いものでありました。


さて、しばらく正座をしておりますと、初めは反省の気持ちでシュンとしているバカどもですが、だんだん神妙な素振りにも飽き、先生に見つからない程度に隣同士小突きあったりするものです。
しかし局所的には小規模であっても、それが複数の箇所、さらには全体、どいつを見ても隣の奴とふざけているとなってしまえば、あっさりと喧しさの程度は見つからない程から見つかる程へとなってしまうものでございます。
鬼がガキどもを吼え、ワタクシたちが震え上がった瞬間、ああ、ついに最悪の悲劇がワタクシを襲ったのでありました。


すなわち、鬼に恐れをなした鳥が巣から飛び立ち、そのとき、ワタクシの頭に、新たな模様を描いていきやがったのでございました…。
ワタクシ、剣道の匂いには慣れており全然気にしませんが、それはすなわち臭いもの全般を克服することと同じではないのだと、そのとき悟りました。
水で洗っても落ちないどころか、手にまでまとわりつく不快感。
そしてその後、面を着け稽古をしたときに味わった地獄は、きっと生涯忘れないでしょう。


今にして思っても、また、今後大成し幾らかの過去を肯定できる日が来ても、永遠にあの匂いは凄まじい吐き気を伴って、
どんなにどんなに洗っても、ワタクシの記憶に、悪しきものとしてこびり付いたままでしょう。

ああ、気色悪い。
  1. 2007/08/16(木) 03:49:32|
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【蝉の死骸】

今朝、玄関前のコンクリートの上に、仰向けになった蝉の死骸があった。
うちのドアに突進でもしたのか、それともただたまたま寿命が尽きる前に飛んでいたのがうちの前だったのか。
でも、これほど喧しいくらい沢山の蝉がいるのだから、こんなことがあっても別段不思議ではないだろう。

と、そこでふと思ったのだけど、今鳴き声を張り上げている大量の蝉たちは、じきにみんな死んでしまうわけで、ではその死骸の末路はどうなるのだろうか。
きっと大半が、他の生物に食われるのだろうけど、なんというか、蝉の喧しい公園というのはイメージ的にアブラムシさん達も沢山いそうな気がして……。

蝉は夏の風物詩とか聞くけど、個人的にはあんなもんうるさすぎるし、さらにはアブラムシさん達の繁栄を助けているのかと思うと、もう。
無粋で残酷なことを言ってしまえば、デパートなどでたまに売られる、程度まで数を減らしていただきたいよ東京都。
  1. 2007/08/15(水) 13:30:58|
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おぞましい・憂鬱

感情は内側にうごめくものだが、感情の表現は外に向けて行われるものであり、その行為のある程度は他者の観察から学習され模倣されたものだと思われる。
メディアを通して演出された安易な感情表現が氾濫する昨今、その弊害として日常において感情の伴わない感情表現を繰り返す者達が多数観察され、自らをあたかも安物のフィクションの主役のようなものに貶めている人間もしばしば見かける。
問題はそれが外に向けられていて、同じ場にいる者にその滑稽な舞台への出演を迫る働きが、彼のその表現によって生まれてしまうことである。
例を挙げれば、愛想笑いを浮かべながら「マジウケるー」「超ウケるー」と言われて、アナタは僕にどうしろと?みたいなことや、
かと思えば戦争という単語のみで、あからさますぎる沈痛な面もちをして俯かれても、お前はパブロフの犬か?程度にしか思えないんですけど、的なことだ。
あ、いや……、別に特定の個人を想定しているわけではないですよ、はい。


ともかく、そんな中でもタチが悪いのは、明らかに自らの利益を計算した上で為されるものである。
不満があるなら言葉にすれば良いものの、巨大なため息を連発し空気を意図的に濁して、誰かによって不満が解消されるのを待つ、ということをする人を時々見かける。
それはもはや、赤子が泣きわめくのと大差がない行為なのだが、おそらく本人にはその自覚がないのだろう。
彼は望みを叶えるために大袈裟なため息を吐き続ける、しかしその実、ため息に見合う程の不満は持たなかったりするのだ。
その上、彼は自らの表現によって己の過剰演出された感情こそを本心だと信じ込む機能を有していることも多いので、もうどうしようもない。
その表現にレスポンスをしなければ、しなかったその人を軽薄と思いこみ、そしてそこから生じる被害者意識によってさらにため息の出力を上昇させるだろう。
もう、泥沼パラダイスだ。


例えば本当に憂鬱であるとき、人は大概それを隠そうとするものではないだろうか。
フィクションならまだしも、日常において憂鬱を演じられても、滑稽に見えるかあるいはおぞましいだけである。

ほんのわずかな憂鬱が内心にあるときこそ、それを膨張させ外に見せつけようとするもので、これは気をつけたいものである。
表現を模倣すると、結果的に内部より過剰となる、ということも少なくはないのだから。
  1. 2007/08/15(水) 05:04:10|
  2. 嘘八百並べ立て祭り
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《似非心理テスト》

a→b→b→c→aと選んだアナタは、本当はこんな人!
と胡散臭い似非心理テストみたいなものは、世の中に未だ少なくない数あるのだろうけど、あれを作るときに重要なのは、
質問から回答者を、“こんな人だろう”と当て填めていくことではなく、“こんな人ではないだろう”あるいは“こんな人として見られたくないだろう”と外していくこと、
そして予め用意した、かなり多くの人に当てはまらないとは言えなくもない“こんな人像”を最後に与えることだろう。

まあ、本当はそんなことをするまでもないのだ。
なぜなら、あれを試す人という時点でターゲットはかなり絞られているのだから。
すなわち
“アナタは他人から自分の個性を決めつけてほしい人”
“ちょっぴり優柔不断だけど、それはアナタが周りの意見をちゃんと聞いて判断する人だという証拠”
“ラッキィカラーは青”
みたいなことを書いときゃ、もう全然問題ないんではないかな、と。
  1. 2007/08/14(火) 15:24:08|
  2. 妄言
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輝かしい・マリオの帽子

マリオと言えば、ピーチ姫の為なら例え火の中水の中、西に緑の土管があれば中に入ってコインを漁り、東に怪しいブロックがあれば笑顔で粉砕スイッチどこだ、そういう人と私は思う、
てな感じのとにかく不屈で強靱で貪欲な男である。

しかし、いかに彼が空をも飛べる超人であろうとも、何度も蘇ることが可能というのはいただけない。
これはいったいどういうことなのであろうか。
以下に考察していきたい。


まずこのことについて今まで誰も触れなかったかというと、そんなことはない。
むしろ、あらゆる人によって散々論じられてきたのである。
その最もありふれた解答というのが、ダミーあるいはコピーを使用しているというものである。
しかしこれではさらに解決できない厄介な問題、ならばなぜ複数体のマリオで協力しクッパ打倒を目指さないのか、というものを発生させてしまう。
これに対し、マリオの目的はピーチ姫の奪還であり、彼女のキスである、ピーチ姫が一人しかいないのに何十人ものマリオたちで押し掛けてもキスは望めそうにない、だからマリオは一人ずつ行くのであり、マリオたちは言わば互いに競ってもいるのだ、と答えたところで
そんな性根の腐ったようなマリオどもにピーチ姫がキスをするはずがない、ということはさておくとしても、
ならば尚更、行儀良く自分の出番まで彼らが大人しく待機している理由がない、なぜ彼らはしっかり出待ちをするのか
というように、恐らく次から次へと問題が出てきてしまうだろう。
そんな小手先の回避を積み重ねるよりも、端的にそれは間違っているとして新たな解釈を模索した方が賢明である。


さて、今回新たに私が提示するマリオ復活に対する解決法だが、鍵となったのは彼がいつも身にまとっているコスチュームである。
マリオの特徴とは、髭・大きな鼻・白い手袋、そして赤い服及び帽子である。
きっとこれらの特徴を挙げるだけで、マリオを知る者であれば誰でも彼を連想するだろう。
しかし逆に言えば、これらの特徴さえ押さえればマリオと認識されるのだ。
その観点から考えたとき、上に挙げた特徴はあまりにも緩いと言わざるを得ない。
なぜなら、それだけでマリオとなりうるなら、ゆるいコスプレでマリオと認識される人間が世界中にどれだけいるのか、わからないほどになるからである。
現にハリウッドがあんなマリオを産出してしまったではないか、任天堂のバカッ、というのはどうでもいいが、このことは実に大事なことだったのである。


なんかやたら長くなってしまったので、あとは簡単にいくが、
つまりマリオとは、あのコスチュームを身にまとった人間の総称だったのである。
さらに言ってしまえば、実はあのコスチュームこそがマリオ本体なのだ。
100コインで一体増えるのは、あれを資金としてマリオ候補を国が雇うからである。
マリオが一体ずつしか出撃しないのは、あのコスチュームが一着しかないためである。
あのコスチュームは実はとんでもなく強力なパワードスーツなのであり、あれこそがクッパに対抗しうるキノコ共の唯一の兵器だったのだ……!


とまあ、こんな感じで如何でしょう。
  1. 2007/08/14(火) 00:12:10|
  2. 嘘八百並べ立て祭り
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《揮発性》

今の季節に、無駄に“暑いあつい”と繰り返すWeb上のコンテンツの六割くらいは、冬になるまでに消滅あるいは更新停止になっているだろう。

あー、それにしても、暑い。
暑すぎるッ。
  1. 2007/08/13(月) 13:45:29|
  2. 妄言
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健康に良い・リモコン

この度発表された八百菱によるリモコン“uso-PACH701”が噂の巷で話題になる雰囲気だ!

というのもuso-PACH701(以後701)はリモコンとしては史上初のコンセプト、使用者の健康を目指した最高(当社比)の設計を施された製品なのだ。

開発チームは静岡県某所にある研究所、通称・樹海と呼ばれる建物の地下31階にある資料編纂室の窓際に六年近く居座った末、遂に701を完成させたという話だ。

701の主な機能は3つ。
まずは高橋メソッドの入力のみ受け付ける、MEIJIN-button。
これは、一秒間に16回以上のボタン入力を使用者に求めることで、使用者の錆びきった瞬発力を目覚めさせようという粋な計らいである。
ちなみに開発チームの人間は未だに入力に成功したことがないらしいが、これは全購買層に対する挑戦状に違いない。


そして次の機能は、斬新な充電方法と脳の活性化を模索した、坂dashα。
使用者はリモコンを充電させるために、付属の次世代ベルトコンベア式デバイスの上に立ち、おもむろに左右の足を交互に繰り出さねばならない。
このデバイスは常に地面から30゚に保たれており、それにより使用者の腐りかけた脳には失われた坂ダッシュの記憶が想起され、活性化に繋がる魂胆だ。
なお、リモコンに搭載のバッテリィは常に過剰なまでに電力を放電しようとするため、使用者は10m/sの速度を保たねば操作出来ず、さらに電力を蓄える機能は結果的に存在しない。


最後の機能は、使用者のコンディションを一旦健康と対極に持って行くことで、逆に究極の健康をもたらすとされる、イタヅラX-ray。
各ボタンにわざわざ取り付けられたエックス線照射装置は、常に使用者の弱点を狙っている。
これはもう、どうすることもできず、使用者はただ途方に暮れるしかないが、その先にこそ真の健康はあるのだ、
と開発チームのリーダー、ウソ林氏は語っている。
因みに彼の余命は幾許もないらしい。
ある意味、技術者の反面鏡と言えるだろう。
合掌。


さてこの701、日本での発売は未定だがネット上では転売が相次ぎ、問題となっている。
知り合いのマニアはこのことについて以下のようにコメントしている。

「コイツには一銭の価値もない。外層がベニヤ板という時点で悪ふざけとしか言いようがない。殺意さえ覚える。じゃあ、いったい誰が買うのかって?はは、それは転売屋さ」
  1. 2007/08/13(月) 02:14:56|
  2. 嘘八百並べ立て祭り
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【僕は僕のための僕】

誰にでも好き嫌いはあって、集団内においてそれを抑えることは大事なことだ。
そう教わってきたし、その通りだと思って生きてきた。
嫌いな相手でも良いところは認めて、我慢して、フィクションなんかだといつかその相手を嫌いではなくなるのが常套で。
そうならないのは自分がダメで未熟な奴だからなのだと、思っていた。

でもそれは、そうして生きることは、とても自虐的でよろしくないのではないかと、今日思った。
自分が何かを好きだとか嫌いだとか感じることは、全然疎かにすべきことではないのではないか。
嫌いな誰かと同じ場にいて、イヤだ嫌いだ憎たらしい死んでしまえ、と喚き散らす内面を押し殺すことは、自分に対してのイジメに等しい。
そうやって泣き叫ぶ自分を助けてやれるのは、自分しかいないというのに。

自分の内面は黒くて汚いのだと諦めて受け入れてしまうのは楽だ。
でも、本当にそうか。
いつでも、内面は口汚く世界を罵るだけなのか。

意識によって無意識を、嫌いなものばかりではない環境に導くべきではないだろうか。
もう憎まなくても良いような場所へ。


結局、我慢は社会を円滑で平和的に見せかけるのに有効ではあるけど、それによって、きっと幾つもの内面が殺されている。
平和に見える絵を描いたって仕方がないのだ。
それを見て褒めてくれるカミサマなんていないんだから。

自分が自分を救うのだ。
ときとして、それが社会との争いを発生させたとしても、自分だけは自分を見捨てず、より良いと感じる方へ向かうべきなのだ。


ココは、何処なのか。
私は、誰なのか。
私は何のために、誰のために存在するのか。

その問いを自らの内面に投げかける。
それは、少なくとも僕にとっては、大事なことだと今日気づいた。
そんなわけで、トータルとして見れば悪くないと評価できる一日でした、とさ。
  1. 2007/08/06(月) 01:55:14|
  2. 日常
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【なぜ行われたのか】

数日前に職場で南京虐殺についての本を見掛けた。
その本には、虐殺に伴って行われた強姦みたいなことも書かれていたのだけど、そこでふと疑問に思った。
なんでそんなことをしたのだろうか、と。
侵略などの際、そういったことがなされるのは少なからずあるらしい。
日常的道徳の観点からすれば、最悪中の最悪に他ならない。
人を殺すことに加え、そういうことをするのは、悪行に悪行を重ねることだ。
仮に人を殺すことは、戦争のルールにおいて許容されることであったとしても、強姦はどう考えてもその枠外だろう。
戦争のルールに則った道徳を持ち行動する個人を想定しても、その個人がそういった行為を容認し実行する理屈が全然わからない。
にもかかわらず、それは現実に行われたわけで。
しかも、ものすごくたくさん。
で、思いついた仮定を以下に書きたいと思います。
まず戦争のルールに則った道徳なんてものはない。
あるいはそれは誰しもが持てるものではない。
兵隊は結局、日常的道徳を保持しているものと考える。
それに従うと戦争における殺人などの行為は悪であるが、兵隊にとってはやらねばならないものであるとする。
そのため兵隊は常に悪を行う、言い換えると悪は兵隊にとって行っても仕方がないこととなる。
ここで戦争における兵隊の状態を考えると、日常より死にさらされた場である戦場にいるというのは苦痛だろう。
単純に身体的に考えても、痛いし疲れるし辛い。
人間だって結局動物なので、報酬がなければやってられないだろう。
このままだと、悪行の内にポジティブな価値のあるものがないので、いつか破綻する。
そんなわけで、つまり悪行においての悪の報酬として、そういう行為があったのではないか。
外的に観ると、
悪行(1)をし続けるために、
悪行(2)を行った、
というようにわけがわからないけれど、
(1)に戦争や殺人などの兵隊にとってもネガティブな価値しかないものを、(2)に強姦などの彼らが多少なりともポジティブな価値を感じられるものをそれぞれ代入すれば、まあ、理屈としてはわかる。
何にせよ、最低最悪に変わりないけどね。
  1. 2007/08/05(日) 06:32:00|
  2. 日常
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【過剰な頑張り】

仕事において、その局面その局面で必要な労働量というのはあるわけで。
そこで過剰に働かれると、逆に迷惑だということもあるのだな、と感じた。

例えば、ある労働者a,b,cがいるとして、そのとき必要な総労働量が90だとする。
このとき、雇用側から各労働者に求められている労働量が皆等しく30だったとする(つまり賃金が同じだとする)。

しかしaが40くらい頑張る人であると、残りのb,cは各々25働けば良いことになる。
まあこの程度であれば、b,cはaに感謝する、くらいのことで丸く収まるだろうし、
あるいはb,cが通常ノルマ分働いて、総労働量が100になっても、大概プラスになると思う。


けれどもし、aが60働く人だったらどうか。
b,cは当然15だけ働けば良いが、このときノルマの半分でいいのかラッキィ!なんて感じる人など、実際あまりいないだろう。
ではこのとき、bが30働きだしたとする。
そうすると逆算して求められるcの必要労働量は0だ。


ところで大概の仕事においてそうだと思うが、プラスになる総労働量には上限がある。
つまり八畳の部屋を掃除しようとするとき、複数の人手があったら助かるけど、100人もいたらむしろ迷惑だよねということだ。
手があいてるからって、増築してもらうわけにもいかないし。

abcの例に戻るけど、そのときプラスになる総労働量は100だとする。
するとcは10しか働けないことになる。
しかもその10は、別にやらなくてもよいわけだ。
こうなると、cのモチベーションって、いったいどうなんだろうか。


でも現実、ノルマの2倍きっかりこなせる人なんて、あまり多くはないだろう。
なのでaの設定を、60働こうとするが40までしか働けない人ということにする。
言い換えるとaは、40も働いているのにさらにあと20働こうとする人である。

このときb,cはそれぞれ25ずつ働けば良いわけだけど、彼らの目には、自分たちより多く働いているaの姿が映る。
しかもaは、さらに働かねばならないように振る舞っているのだ。

このような場合、その環境に架空の忙しさが生じてしまうだろう。
すなわち、ありもしない労働量の要請が錯覚として生じる、ということ。

b,cがaの架空のノルマを補おうとすると、それぞれ35ずつ働くことになる。
そして総労働量は110となり、もはやプラスではない。



結局何が言いたいか、というと
仮に親切心か何かで人の分まで働こうとするならば、さり気なく、目立たずにするべきじゃないか、ということ。

こういうのって、結構あると思うのですが、どうでしょう?
  1. 2007/08/04(土) 03:46:31|
  2. 日常
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《ふと頭に浮かんだ映像》

とある河原のほとりに、

┌────────────┐
│どうぞ僕を食べてください│
└────────────┘

と書かれたダンボールが置かれている。
一面に広げられた青いビニールシート、
その上には、とびきり笑顔のアンパンマンの頭部がずらり。


彼らの身にいったい何が?
次週、
『アンパンマンと工場閉鎖』
お楽しみに!
  1. 2007/08/03(金) 22:17:49|
  2. 妄言
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