シッタカブリオーネ

虚言・妄言・支離滅裂

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未定

--memo--

・バイトってほとんど社会主義だ、と感じる。人間の中で最も恐ろしいと感じる感情は善意だ。
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  1. 2008/06/22(日) 01:22:58|
  2. 日常
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システム

 ネタを小出しにすることと、暖めて無意識に成熟させること、どちらにも利点はある。小出しにすれば、要するに変遷がわかりやすい。今日の自己と昨日の自己は少し違う。朝の自己と夜の自己も少し違う。違いの中から見いだすべきは、向かう方向。どこへ向かうのか、どれくらい歩いたのかがわかれば、迷いはきっと起こりづらくなる。
 しかし欠点もある。ヒトは勘違いをするものだし、手近にあるものを真実だと思い込むこともよくある。そして小出しにするためには言葉が必要で、言葉はそれ自体方向を持っている。良くも悪くも形となって現れてしまう。形は一つのあり方を肯定するもので、その他の形の否定形とも言える。なにより、目印は、振り向かせるのだ。そして叫ぶ。これこそが私のあり方だ、私はこうあるべきだ、と。
 もし僕が永遠に生きられるなら、目印なんていらない。歩くことだけを楽しもう。風のように、水のように。けれど僕は常に死への可能性をもつものだ。だから、すべては選べない。何かを選ぶしかない。欲しいのは、帰る家でなければ、臥すための墓標でもない。今の自分に必要なのは、きっと、蟻のような確実な一歩一歩だ。


 話は変わる。この社会において、嫌われ者というのは多分必要なのだ。いや、そうじゃない。この社会において嫌われ者を必要とする仕組みが存在しているというだけだ、きっと。嫌われ者というのは、それ以外の者に結束や共有される楽しみを与える。嫌われ者がいる方が和やかになれる集団が、この世には多く存在する。本当はなくても済むのだけれど、それを見つけ出しクスクスと笑い合う愉しみをほとんど誰も手放そうとしない。最初はカウンターだったのだろう、けれど簡単に手に入るそれはいつまでも機能として消えない。
 バランスをとるために何かを楽しむのは、もうやめよう。そんなことをしなくても愉快なものはある。感情は調整機能だ。けれど、調整が必要なのは他者との関係においてだけではない。あるいは、自分だって十分に他者じゃないか。
 しかし、難しいことだ、他者との関わり合いというのは。そこにはもはや、誰という単位で計れないものが成立しているから。だからできれば、最初から関わりたくない。あーあ、面倒くさい、もぅ。


 道を歩くのは容易い。けれど、昨日歩いた道をもう一度歩くのは難しい。ほとんど不可能だ。そうして、そんな馬鹿げたことを考える僕を、地球が笑う。昨日僕がいた場所は既に、物理的に遥か遠くだ。もう二度とそこへ行けない、なんてことはないけれど。
  1. 2008/06/21(土) 23:53:43|
  2. 日常
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こころみ

 どうも書いたり書かなかったりするので、よろしくない。書くなら毎日書く、書かないならずっと書かない、ときっぱりすべきのように思えた梅雨時日本劣等感。要ダジャレ自重。
 まあ、そんなわけで、空いている時間にメモ書き投稿をして、夜に一応の清書をしようキャンペーン勃発。どうせ一週間も続かないだろうけれど。

 本日の降水確率は20%。実際は水滴が極微量降った。以前、20%で降られることが体感的に20%を超えている、と書いた。冷静になって考えれば、ここにある理屈は簡単だ。僕は思い切り空が晴れていれば天気予報なんて見ない。雨が降るかもしれないという予感をわずかでも感じて、それで天気予報を見るのだ。だから、体感的に20%を超すのは当たり前のことと言える。
 占いなんて馬鹿馬鹿しい、と思っていたけれど、案外それに近いことをやってしまっていることを自覚する。情報は客観的に見なきゃだよなぁ、と当たり前のことを思う。

 出先に着いてからライターを持参し忘れたことに気づく、何度目だ自分。いっそ左手の薬指あたりに埋め込むと良いかもしれない。さすがに置き忘れることはなくなるだろうから。

 現在読書中の本に、“人間は脳を10%以下しか活用していない”というのはデタラメである、というようなことが書かれていた。それはもちろんそうだろう、神経科学とかから見れば。でも、その言明が意味していること、意図を想像すると、何というか的外れなように思える。
 その言明の意味、あるいは価値は、人間の可能性を具体的に小さく設定してみせることだろう。大事なことは、イメージを持つことだ。現在の状態をただ単に“まだまだ”とするのではなく“10%”とすることでそのイメージに具体性を持たせることにこそ、その言明の意図があるのだと思う。
 イメージは、未経験なものごとに取り組む場合非常に重要だと思われる。その他、未来を設計するのにも役立つ。ヒトはあらかじめ用意された着地点に向かって飛ぶものだ。イメージとは、私に先立って投げかけられた未開の着地点を照らす照明のようなものだ。そんな気が、少しする。
 個人的には、イメージを使ってものごとを云々するの、結構苦手だけれど。
  1. 2008/06/20(金) 23:54:42|
  2. 日常
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多弾頭

 –––––心からお悔やみ申し上げます。

 そう言って去ったあの人は、違う場所、別の誰かと笑っている。
 けれど言葉が嘘だったんじゃないと思う。
 きっと、あの人の持つたくさんの心のうち、悲しみの部分だけが切り離されて、私の身体にめり込んだのだ。

 でも、それじゃ私はどうしたら良いのだろう。どこを切り取っても悔やんでいる私の心は。
 考えたあげく、空に打ち上げた。白い煙。SOS。雲と同じ色だから、誰も気付かない。
 破裂。音。閃光。そうして思い知らされるのは、まぶしい太陽と、相対的にちっぽけな私の心。
 聞こえなかったでしょう?見えなかったでしょう?気付けなかったでしょう?
 私はあなたの名前を呼んだのに。世界を満たすあらゆる振動の中に、まぎれた。消えないけれど、あるのだけれど、もう判別のつかない。

 心から、どの心から?切り離して捨てられる、そんな用途の心から。
  1. 2008/06/18(水) 09:48:26|
  2. 妄言
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理解と現実

 大概の人間は、自分についての理解を他人に望む。それはそうなのだけど、その欲求も二つに区別できるように思う。一つは自分で作った自己という虚構を受け取って欲しいと望むもの、もう一つは他人に自己という虚構を作成してもらおうと望むもの。
 前者は世界に対するアクション、後者は自己に対するアクションと言うこともできるだろう。当然ながら、望まれているものは変化である。大げさな言い方をやめれば、現状において感じる対人関係の不満を解消するために、自己か他人を変化させようという試みが、いわゆる他人の理解を望むということではないかと思う。

 さて、標準的な人間は何らかの試みを行うとき、結果を予測し最も理想的であるような選択をするものである。それを試行する際に理想から外れていくとしても、少なくとも最初の段階ではそうしようと思っている。
 そして結果を予測するとき、明確なサンプルがあるとどうしても影響を受けてしまうものである。

 あー、だめ、眠い。結果だけ残して、また明日、もしかしたら書くです。
 結果:ネガティブなものばかり追いかけるべきではない。
 ねまーす。
  1. 2008/06/10(火) 03:27:47|
  2. 日常
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メモ乱打

・アマゾンにおける、メジャーな続編ゲームの平均的なレビュー推移。

発売前:嘆き、不安を語る輩の発生。これに対し、そんなことを書くな、というレビュー(?)が発生。場が暖まり始めると、期待してます!的な進行方向不明なメッセージが湧く。

発売後:不満、揚げ足取り、大げさな絶望レビュアーが我先にとプリプリしだす。その後、肯定的な文章がぼちぼち出始める。最終的には、おおむね肯定派が生き残る。

 発売後について考えてみる。なぜそのような現象傾向にあるのか。
 簡単なことだ。前期における否定派の大量発生は、ハマっている多くの人がレビューなんてものを書く暇があったらそれをゲームに費やしているために観察される。後期においては、時期を過ぎてもなおメジャーな続編ものについて語ろうとする者、あるいは検索をかける者は、大体にしてそのシリーズの信奉者だからだ。そこまで大げさでなくとも、少なからずポジティブな感情でそれを見ようとする者だろうから。

 こんな傾向に対し、楽しんだ者勝ちだ、という台詞はよく言われる。けれど少なくとも、アマゾンに不満レビューを書く人の多くに関しては、どうも不満を楽しんでいるように感じるけれど。悦に浸るというか。
 まあ、こんなことは同様の嗜好が自分にあることだからわかる、というか型に押しはめて解釈しているにすぎないんだけど。
 他人のふり見て我がふり直せ、か。でも、楽しいからいいような気もするけどね。
  1. 2008/06/09(月) 01:00:53|
  2. 妄言
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どうにも

 うまい言葉が見つからない。空回りのあげく熱暴走のためにフリーズ。そんな近頃。のような気がする。いや、多分全然違う。そう、まるで滑稽なほど。
 けれどそれでも言葉を語れば、違っていると感じさせる当の何ものかを間接的に感じることができる。違っていると感じることでしか触れられない何かに、触れることができる。それこそが言葉の価値。
 その何ものかが、そう感じる以前に存在するものなのか、すなわち幻想にすぎないのではないか、などということはどうでも良いことだ。もどかしさがそれによって、動力や指針となり得るならそれで良い。前進することによってのみ価値は生じるし、価値があるとは前進できるという意味だ。
 前進?あるいは変化。運動?あるいは鑑賞?

 わからない。ただ、言葉の恐ろしさとは、言葉の中にわかるという語が含まれていることだ。わからないことでさえ、わかったことになってしまう。誤解も一つの理解だ。理解は何かの終着であり諦めのようなもの。
 しかし、それがなければ、新しさというものも無いのかもしれない。
 よくわからない。わからないくせに格好ばかりつける自分の言葉は、もうほんとにいい加減にしろと思う。僕はわかりたいのか、わかりたくないのか、わからない。前進しているのかどうかも怪しい。なんともはぁ、もどかしい。


 今日は雨が降るとの予報だったので傘を持ってバイトへ向かう予定だったが、朝、そんなことは忘れていた。結局雨は降らなかったけれど、なんだかばつが悪い。まあ、まあ、いっしょに反省をしようじゃないか気象庁。
 帰宅後、アニメ〈青の6号〉を鑑賞した。すごい濃密で、面白かった。落としどころ(母親のようなムスカや、ゾーンダイクの家族など)がいらないという気はするものの、逆に言えばそれくらいのことをしてと懇願できるような作品。いやあ、よかったッス。

 って、昨日もバイト後にアニメ〈灰羽連盟〉を観てしまったくせに、良いのか、時間は。と自家突っ込み。良いのです。と自家洗脳。これぞ自家宗教。アホか、自分。以下エンドレス。
 さあて、寝ますか。寝られればな。
  1. 2008/06/08(日) 23:08:10|
  2. 日常
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所感

・何かを合理的に行うことは難しい。行為に関わる知、実践的な知というものが自分には全く足りていないと思い知らされる。それは実際、学校に通っている間は無くて済む。だからそれをしなかったし、できなくても平気だった。大人がそれを持っていることは感じていたけれど、それは経験によって、すなわち年を取ればいずれ自分にも可能になることだと思っていた。そう信じて、何もしないできた。
 それはとても愚かなことだ。身体を動かすことなしに、ヒトは歩けるようにならない。泳ぎ方をどれだけ考えても、たとえ泳ぐことがいかなることかを“わかった”としても、水に浸かったこともないのに海に飛び込むのは危険だ。ヒトは航空力学を確立してから飛行機を作り始めたのではない。
 僕は社会の歯車になりたい。円滑に動き、決して軋まない、伝えられた力を失わせること無く次へ伝播させられる、そんな歯車に。自分を世界に組み込むことで得られるのは、たぶん、世界そのものだろうから。


・大人の大人げない場面に出会すと、どうしようもなく居たたまれない気持ちに襲われる。身体が震える。怖がっているのだろうか。自分でもよくわからないけれど、幼少の頃に叱られて泣きじゃくっていた人格が、こっそりと隅の方でうずくまっているように感じる。とても嫌だと思う。他人の、激しい感情は、見たくない。でも、どうしてだろう。他人を理解するのに、それはとても大事なことなのに。
 大人の子供らしい一面を見ると、不思議と心は和らぐ。尊敬できる大人たちはみんな、そんな一面を持っている。
 大人げないことと、子供らしいことは、同じでない。たぶんそういうわけ方が良くないのだと思う。大人だとか子供だとかいうことなんて、実際たいした意味を持ってはいない。未来における可能性という観点から見たとしても、変わりないのだ。もし違うものがあるとすれば、それは、大人の中には自己や世界を見限ってしまう人がいくらか含まれるということくらいだろう。
 けれど見限ったからといって、何かが得られるわけではない。少なくとも、それは立派な大人の必要条件ではない。そう思う。そう信じる。


・職人という人種は、どうしてああも格好良いのだろう。ちっぽけな工場の、背の低い老人の動作に、サン=テグジュペリの幻影を見る。美しい、と感じる。
  1. 2008/06/07(土) 20:07:33|
  2. 日常
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たわごと

 例えばね。
 君がよく口にする“今度”というやつが、どれだけカレンダーをめくってもやってこないものだとして。
 そうとはっきり言ってくれたら、どんなに楽だろうかと思う。
 本当のところ、それこそが優しさだ。
 だから僕は知っているよ、君がそんなに優しくないって。

 けれどもね。
 僕がそれを指摘しないのは、結局のところ同じことなんだ。
 僕も僕なんかに優しくしたくない。
 より良く生きるのは面倒で、正しくない現在に横たわっている方がずっと楽だ。
 ある意味で、君は僕に優しい。
 病気の人を哀れむように、死んだ人を尊ぶように。

 墓石を用意するために僕は生まれたのだろうか。
 何をどこで間違えたのだろうか。
 それともこれは、間違えでさえないのだろうか。
 こんなものでも正しいような僕なのだろうか。

 明日は電話がこなければいい。
 きっとうまく笑えない。
 今度はずっとこなければいい。
 今度は今度のままでいい。
  1. 2008/06/07(土) 02:44:03|
  2. 日常
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理解と了解

 困った。そろそろ洗濯済みの衣服のストックが切れそう、というか実のところ切れている。明日も雨らしいし、いつまで続くかリサイクル靴下。臭いは嗅がない。わかりきってるから。

 帰宅中、コンビニに立ち寄った。読み逃していた先週のファミ通が売っていたので、伊集院のコラムだけ立ち読み。それにしても、ラジオで言っていた書籍化の件が実現するのはいつになることやら。「のはなし2」は来年くらいかな……。

 ところで立ち読み中、物理的にこんがらがっている男女が隣にやって来て、思わず顔をしかめてしまった。昔は、ああいう大人は理解できない、と思っていたけれどおそらく今や僕の方が年上だ。幼少の頃の僕よ、大人になればわかるという予感は確実に外れてしまったよ。ナムナム。
 いや、しかし、どうなんだろう。僕にはなぜ彼らがああいったことをするのか、その動機というか成り行きのようなものが想像できないわけではない。むしろ、一般的な振る舞いを保つ普通の人の方が、そこからその人の本性を察するのは難しい、すなわち理解できない。
 公共の場で物理的にこんがらがっているような人たちは、結局のところ理解は容易いが公衆を形成する一要因としてその存在を了解したくないだけだ。理解できるかどうかと、了解できるかどうか、同意できるかどうかは異なる。それにもかかわらず、つい「理解できない」と言ってしまうのはどうしてか。
 理解できているのに、だからといってどうしようもない、という状況を認めたくないからだろうか。それとも単に不快なものを遠ざけたい、という理由からだろうか。

 ああ、そういえば、底が浅いように感じられる彼らにも理解できない部分はあるな。例えば彼らが、ああいった人間になることをいかにして許容できたか、とか。
 うん?いや、それもまた、想像できるか……。ナムぅ。
  1. 2008/06/02(月) 23:15:31|
  2. 日常
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