シッタカブリオーネ

虚言・妄言・支離滅裂

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《5.風のせい》

理由なんて何もなかった。
強いて言えば、雨が降っていなかったとか、昨晩見た夢の映像が美しかった気がするからとか、その程度しか思いつけない。
でもそんな条件は月に数度は成立していたから、それ自体が大したことじゃないことくらいわかる。
何となく、本当に何となくとしか僕には言いようがないんだけれど、考えてみれば今までの日常だって同じように何となく保たれていたものだったわけだし、そういうものなんだと思う。
僕は自転車でいつも通り会社に向かった。
いつもと違っていたのは、会社の前まで着いてもハンドルを曲げず、ペダルをそのまま漕ぎ続けたというそれだけのことだ。
でもたったそれだけで、僕はもう二度と戻れなくなった。
日常はどんどん後ろに遠ざかって、もう見えなくなってしまった。
不安は、距離と時間が積み重なるほど薄れていった。
そうして僕はいつの間にか旅を始めていたのだった。
スーツとネクタイという出で立ちで、鞄にはもう意味のない書類だけを詰めたまま。
帰り道はない。
帰る家はない。
帰れる僕は、もういない。
けれど帰りを待つ人も僕には最初からいなかったから、これでいいのだと思った。


見知った街を通り過ぎて、しばらく何もない道を走った。
山の静けさと車輪の回る音、そして自分の呼吸。
風が心地よい。
日差しは暖かで、今日は何とも旅にうってつけの日だと改めて感じた。
しかし日が頭上にある間は気分が良いだけだったものの、夕方近くなるとさすがに多少の不安も芽吹き始めた。
とりあえず空腹を満たして、あとはどこかで眠って夜をやり過ごそう。
日も完全に落ちた頃、人家もまばらに現れ始め、僕はようやく見つけたひなびた食堂の暖簾を潜った。
狭い店内はお世辞にも綺麗とは言えず、左手の座敷に老人が横になっている他は、カウンターの中にさえ誰もいなかった。
この老人がここの主人ということなら起こしても良いのだろうか。
一番良いのは、このまま何も見なかったことにして、ここから出て行くことに違いないけれど。
さて、どうしたものだろう。
「ん?あれ、お客さん?」
引き返そうと戸に手をかけるとカウンターの方から女の声がした。
振り返ると、前掛けをした背の高い女が立っていた。
歳は僕とあまり変わらないだろう、目の細い愛想が良さそうな顔を少し傾けていた。
「声かけてもらわなくちゃ、わからないよ。危うく儲け損なうとこだった。さ、座って」
僕は言われるがままにカウンターに腰掛けた。
腹が減ってはいたけれど、特に何を食べたいという事はなかったので、日替わり定食を彼女に頼んだ。
それから、この辺に宿泊施設か野宿できそうな場所はないか、恥ずかしかったけれど訊ねてみた。
「うーん、この辺は何もないからねえ。野宿は、虫が相当好きじゃないなら、勧められないし」
ご飯を僕に差し出しながら彼女は言った。
「街に出ないとどうしようもないけど。お兄さん、出張か何か?」
僕は首を振って、旅に出ているのだと説明した。
そんな格好で、と彼女は一頻り笑った後じろりと僕を睨んだ。
「お金、あるんだよね」
心外だったので財布を出して証明しようと鞄を漁ると、彼女は再び笑った。
それから「真面目なお兄さんだねえ」とからかうように言った。
突然、背後で物音がしたので振り返ると、老人がのそりと起きあがっていた。
彼は僕に一切目をやらず、カウンターの中に入っていくと、そのまま奥に消えてしまった。
「ごめん、私の祖父なんだけど、いわゆる愛想のない頑固爺なんだ」
この店は元々彼と、彼の奥さんのものなのだ、と彼女は説明してくれた。
「でも三年前に祖母が亡くなって、私それまでふらふらしてたから、親の命令でここと祖父の世話を押しつけられちゃったってわけ」
まあまあ楽しいけどね、と彼女はまた笑った。
僕はこの手の笑顔を見るのが苦手だったので、目を逸らしたかった。
どうしようもなく、痛みを感じてしまうから。
「あーあ、お兄さんがずっと前から旅をしてた人だったら良かったのにね。旅の話を聞く若女将、なんて一回やってみたいシチュエーションだもん」
僕は肩をすくめた。
「でも今日旅を始めたばかりの旅人には、そんな役目はハードすぎるでしょ?まあ、いいや」
それならいつか、またここに来よう。
もし僕が三流の俳優か何かなら、はにかみながらそんな台詞を吐くけれど、僕はどうしたって僕だし、それは仕方ない。
その日の日替わり定食は鯖の味噌煮とライスとサラダ、それから味噌汁。
とてもおいしかった。
でも、それだけ。
きっとここに来ることも、彼女に再び会うこともないだろう。
会計を済ませて、僕は食堂を後にした。
彼女から屋根付きのバス停の場所を教えてもらったので、僕はそこで一晩明かすことにした。
ベンチの上は寝心地が悪く、多少辟易した。
やがて日は昇りはじめ、あまり眠れなかったけれど、僕は走り始めることにした。
時刻はまだ早く、誰も目覚めていない世界はとても静かだったけれど、それでも空は自転車を漕ぐには十分な明るさで輝いていた。
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  1. 2007/10/11(木) 18:33:20|
  2. 連想駄文
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