シッタカブリオーネ

虚言・妄言・支離滅裂

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《17.羽化》

声のきれいな人だった。
名前は麻由子。
僕がこの世界で最も愛した存在だ。
部屋の隅を自分の居場所と決め込んでいたのか、いつもそこにしゃがんでいて、左手で頭を支えながら、何かを悔いているような眼差しを床の上に漂わせていた。
僕に見られていることに気付くと、いつも健気に微笑んだ。
それはおそらく優しい拒絶で、しばしば僕は悲しい気持ちにさせられた。
「ごめんね、もうすぐ、出て行くから」
彼女は綺麗すぎる声で言う。
だから僕の感情なんて、すぐさまぐちゃぐちゃになって、叫んでしまう。
「そんなこと、言わないでよ」
彼女は申し訳なさそうに、けれどなお微笑んだまま、ゆっくりと首を振る。
「ごめんね」

彼女は一日に一食しか食事をとらなかった。
それも、僕が無理にお願いして、やっと。
一度だって自分の分を残らせることはなかったし、いつも美味しそうに食べていたけれど、ほんの一瞬だけ瞳に深い懺悔の色が浮かぶことがあって、僕は徐々に食べる量を減らしていくほか無かった。
「何か、好きな食べ物はないの?」
僕が聞くと、彼女はしばらく考えて答えた。
「水」
「それは、どちらかと言えば食べ物じゃないかな」
僕が笑うと彼女は本気で困っているような顔をした。
「じゃあ氷、はダメ?」
「ダメって事はないけどさあ……」
僕が唸っていると、彼女はまた謝りそうに見えた。
「それなら今度、かき氷機を買ってこようか」
それを聞いて彼女が微笑むのを見て、僕はほっとした。
「今の季節に、売っているかな」
「案外、今だからこそリサイクルショップとかにあるかもしれないよ」

細い指、細い腕、細い首。
彼女の身体はどこを触れても簡単に壊れてしまうように感じられた。
彼女自身、つまりその心も。
けれどその逆に、どんなに力を加えられても決して曲がりさえしないように思えることもあった。
僕は不思議だった。
なぜ壊れそうな彼女に触れると安らぎを覚え、逆に鋼鉄のような彼女に触れるとひどく不安になるのだろう。
わからないけれど、しかしそれはとても無様で醜いことのような気がして、僕は彼女にそんな自分の本心を告げることなどできなかった。
おそらく容易に見抜かれていただろう。
そう思うのは、そうであって欲しいという願望のためか、あるいは彼女の見せた、慈愛に満ちた眼差しのためか、いずれかだろう。
いずれにしたって、もはや何の意味はない。
それでも僕は、未だにいずれだとも断定できかね、ときどき考えてみるのだった。

ある朝、いつもの場所で、彼女は動かずにいた。
声をかけても、触れてみても、何の反応も返してくれなかった。
うずくまる彼女に僕は心配したけれど、そういったことはそれまでにもあったし、講義を休むわけにもいかなかったので、そのまま家を出た。
本当は、どこかで予感していたのかもしれない。
僕は逃げたかったのかもしれない。
最後の時が、そうすることで遅らせられるなんて、そんな夢みたいなことを願っていたのかもしれない。
しかしそんなことでどうにかなるわけはない。
それはもう、すべての生物が大地に手を当てて祈っても、地球が回るのを止められないのと同じ。
夕方、部屋に戻ると、彼女はうつ伏せに倒れていた。
「麻由子!」
駆け寄って揺さぶると、彼女は顔を上げ、僕を見た。
そして微笑む。
「おかえりなさい」
その微笑みは嬉しそうで、目を逸らしたかった。
「どうして」
「泣かないで。これは、ちっとも、悲しいことじゃないんだよ」
彼女の震える左手が、僕の頬に触れた。
僕はその冷たい手を右手で覆った。
「こんなに幸せなことって、ないんだよ。だから、泣かないで」
彼女の頭がだんだんと落ちていき、僕は左腕で支えた。
「麻由子、麻由子!」
彼女の唇がかすかに動いた。
見たくなかった。
塞いでしまいたかった。
でも僕の眼は、じっとそれを見ていた。
なにを言いたいのかなんてわからない。
もう声は聞こえない。
彼女の手がどんなに冷やしてくれても、頬が熱くてたまらなかった。
やがて、パリパリという音が聞こえ。
彼女の背中が裂けた。
突風が吹いた。
その暖かさに、僕の感情は吹き飛んだ。
握っていた彼女の左手がフワリと潰れた。
僕は立ち上がり、窓を開けた。
それが彼女との約束だったからだ。
そうして彼女は、たぶん、この部屋から出ていった。
あとには彼女の抜け殻と、僕だけが残った。

その抜け殻を捨てるのに三週間もかかったのは、感傷に浸っていたからではない。
単に僕がズボラなことと、それが燃えるゴミの日に出して良いものか迷ったことが原因だ。
正直に言えば、何度かその抜け殻を覗いて、何かが残されていないか調べてみたりもした。
けれど当然、中は空っぽだった。
僕が愛した存在は、何だったのか。
わからない、けれど。
きっと大気中のどこかを、今でも漂っている。
風が綺麗な音で鳴るたび、僕は彼女を思い出す。
名前は麻由子。
僕が世界を愛せる原因。
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  1. 2007/11/10(土) 02:10:59|
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