シッタカブリオーネ

虚言・妄言・支離滅裂

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所感

・何かを合理的に行うことは難しい。行為に関わる知、実践的な知というものが自分には全く足りていないと思い知らされる。それは実際、学校に通っている間は無くて済む。だからそれをしなかったし、できなくても平気だった。大人がそれを持っていることは感じていたけれど、それは経験によって、すなわち年を取ればいずれ自分にも可能になることだと思っていた。そう信じて、何もしないできた。
 それはとても愚かなことだ。身体を動かすことなしに、ヒトは歩けるようにならない。泳ぎ方をどれだけ考えても、たとえ泳ぐことがいかなることかを“わかった”としても、水に浸かったこともないのに海に飛び込むのは危険だ。ヒトは航空力学を確立してから飛行機を作り始めたのではない。
 僕は社会の歯車になりたい。円滑に動き、決して軋まない、伝えられた力を失わせること無く次へ伝播させられる、そんな歯車に。自分を世界に組み込むことで得られるのは、たぶん、世界そのものだろうから。


・大人の大人げない場面に出会すと、どうしようもなく居たたまれない気持ちに襲われる。身体が震える。怖がっているのだろうか。自分でもよくわからないけれど、幼少の頃に叱られて泣きじゃくっていた人格が、こっそりと隅の方でうずくまっているように感じる。とても嫌だと思う。他人の、激しい感情は、見たくない。でも、どうしてだろう。他人を理解するのに、それはとても大事なことなのに。
 大人の子供らしい一面を見ると、不思議と心は和らぐ。尊敬できる大人たちはみんな、そんな一面を持っている。
 大人げないことと、子供らしいことは、同じでない。たぶんそういうわけ方が良くないのだと思う。大人だとか子供だとかいうことなんて、実際たいした意味を持ってはいない。未来における可能性という観点から見たとしても、変わりないのだ。もし違うものがあるとすれば、それは、大人の中には自己や世界を見限ってしまう人がいくらか含まれるということくらいだろう。
 けれど見限ったからといって、何かが得られるわけではない。少なくとも、それは立派な大人の必要条件ではない。そう思う。そう信じる。


・職人という人種は、どうしてああも格好良いのだろう。ちっぽけな工場の、背の低い老人の動作に、サン=テグジュペリの幻影を見る。美しい、と感じる。
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  1. 2008/06/07(土) 20:07:33|
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